山崎保代
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山崎 保代(やまざき やすよ、明治24年(1891年)10月17日 - 昭和18年(1943年)5月29日)は、日本の陸軍軍人。北海守備第2地区隊長としてアッツ島防衛戦を指揮した。最終階級は陸軍中将。
経歴[編集]
山梨県出身。陸軍士官学校に進み25期卒業。兵科は歩兵。 太平洋戦争開戦約1年前の1940年(昭和15年)に大佐に昇進し歩兵第130連隊長に就任する。太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)6月8日に日本軍はミッドウェー海戦と呼応してアメリカ領アリーシャン列島の西の島、アッツ島・キスカ島を占領する。アッツ島には北海第2守備隊が置かれ、山崎はその隊長に任命される。1943年(昭和18年)4月18日にアメリカ軍に制海権を握られている中上陸。 同年5月12日にアメリカ軍が上陸。戦力は日本軍の約5倍で抵抗は難しい。そこで北方軍が援軍を要請するが海軍は戦力不足として拒否している。そのため北方軍は5月23日に援軍断念を謝罪し玉砕を命じる。5月29日に山崎が部隊の先頭で玉砕突撃。2階級特進して中将。その後作られた戦時歌謡、アッツ島血戦勇士顕彰国民歌の中に山崎の名前が出てくる。