坪内逍遙

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
坪内逍遥から転送)
ナビゲーションに移動 検索に移動

坪内逍遙(つぼうち しょうよう、安政6年(1859年)5月22日(旧暦)-1935年5月28日)は、日本の文豪、教育者。

人物[編集]

美濃国に生まれ、名古屋に移り住んで育つ。本名・雄蔵、別号・春のやおぼろ。
馬琴や草双紙に親しんで育ち、明治16年、東京大学(東京帝国大学になる前)文学部理財科・政治学科卒業。授業でシェイクスピアをホートンという英国人に学び、マクベス夫人について道徳批評をしたので悪い点をつけられたことで、西洋風の批評や文学観を学んだきっかけとされる。
1884年(明治17年)、ウォルター・スコット作『湖上の美人』を翻訳した『春窓綺話』、シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」を翻訳した『自由太刀余波鋭鋒(じゆうのたちなごりのきれあじ)』を刊行、1885年(明治18年)、近代小説の嚆矢とされる『当世書生気質[注 1]と、小説の理論書『小説神髄』を刊行。当時は小説が戯作と見られていたので、大学を出た者が小説を書いたというので驚かれたという。『小説神髄』では、馬琴の八犬士を「仁義八行の化け物」と批判し、「小説の主脳は人情なり」としたのが知られるが、のちにこの馬琴批判は恥じていたという。続いて『新磨妹と背かがみ』などを書く。二葉亭四迷の来訪を受け、ロシヤ文学に基づいた該博な知識に驚き、その『浮雲』刊行の手助けをした。

根津遊郭に遊んで、そこで娼婦をしていたセンを身請けして結婚するが、妻の前身が娼婦だったことは周囲では知っていたが公的には隠していた。

「細君」で家庭内のことを書いて以来、小説の筆を折り、東京専門学校(のち早稲田大学)の教員となり、教育に力を入れ始め、のち早稲田大学教授となる。教員になってから喫煙を廃したが、そのため不眠症になったという。

だが演劇への熱はあり、歌舞伎脚本「桐一葉(きりひとは)」「沓手鳥孤城落月(ほととぎすこじょうのらくげつ)」などの大坂の陣を描いたものを書いたが、上演されるまで十年ほどかかった。ほかに「お夏狂乱」「役の行者」などを書いた。さらに演劇運動として文藝協会を起こし、島村抱月松井須磨子らを擁して新劇の上演に力を入れたが、抱月と須磨子の恋愛問題のため協会を脱退し、1913年(大正2年)に早大教授も辞して名誉教授となる。

森鴎外と行った「没理想論争」では、シェイクスピアの戯曲のように、登場人物の台詞だけがあって解説がなく、作者が自らの思想を表明しない、つまり「没理想」であるのが芸術のあるべき姿だとして鴎外の反論を誘った。

シェイクスピア作品の翻訳は続け、全戯曲のみならず詩も翻訳し、第一回朝日賞を受賞した。また『逍遙選集』も存命中に刊行したが、今日に至るまで完全な全集はない。1928年(昭和3年)、早大に演劇博物館を設置、現在は坪内博士記念演劇博物館とされている。

親族[編集]

[編集]

  1. 医学者の野口英世が幼名の清作から改名するきっかけとなった作品としても著名である。
  2. 父(逍遥の兄の子)が一時逍遥の養子だったので、孫と紹介されたこともある。