宮森繁
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宮森 繁(みやもり しげる、1918年 - ?)は、日本の映画美術監督。東宝争議の指導者の一人で[1]、東宝退社後は日本共産党幹部。
経歴・人物[編集]
北海道旭川市生まれ。1934年北海道庁立旭川中学校を中退、上京後は美術研究所に通いながら芝居や映画を鑑賞。1937年東宝の前身の一つであるピー・シー・エル映画製作所美術部に入所。1939年帝国軍隊に入隊、十勝音更で敗戦を迎えた。1945年11月東宝映画製作所に復帰、日本共産党に入党。録音技師の安恵重遠、制作関係事務局の山田典吾との3人で東宝撮影所細胞を創設し、初代細胞長を務めた。翌年美術監督に就任した。
1948年3月に会社側が団体協約の破棄、4月に1000名以上の首切り案を発表したことがきっかけとなり、東宝映画第三次争議が勃発する。このとき宮森は日本映画演劇労働組合情報宣伝部長・闘争委員を務めていた。「来なかったのは軍艦だけ」ともいわれるアメリカ軍が介入する事態となったが、10月に宮森や山本薩夫など20人の自発的退社と引き換えに、250名の解雇を撤回することで会社側と組合側が合意し、第三次争議は終結した。
1948年11月に東宝映画を退社、1949年から日本共産党中央委員会に勤務し、のち中央委員を務めた。1950年に共著『日本の国ができるまで』で第4回毎日出版文化賞を受賞。日本共産党中央委員会理論政治誌『前衛』や日本共産党中央委員会思想文化誌『文化評論』に政治評論を執筆[2]。1991年時点で日本共産党元中央委員[3]、1997年時点で名誉幹部会顧問[4]。2002年時点で杉並・中野・渋谷多喜二祭実行委員会会長。
著書[編集]
単著[編集]
共編著[編集]
- 『日本の国ができるまで――目で見る日本史』 たかはししんいち、まつしまえいいち構成解説、みやもりしげる美術、江口準次等絵、日本評論社、1950年
- 『少年少女科学名著全集 9 日本の国ができるまで』 松島栄一、高橋磌一共著、国土社、1964年
- 『トロツキズム批判』 レーニン著、村田陽一共編訳、大月書店(国民文庫)、1974年
- 『ふるさとのおもちゃ――郷土玩具の魅力』 大野隆男共著、新日本出版社(新日本新書)、1991年
分担執筆[編集]
- 岩崎昶編『映画・こうして作られる』同友社、1949年
- 労働運動史研究会編『占領下の労働争議』労働旬報社(労働運動史研究)、1972年
- 労働者教育協会編『政党法――解説と資料』学習の友社、1984年
- 日本共産党『わが青春の日々――共産主義者の群像』日本共産党中央委員会出版局、1988年
担当した映画作品[編集]
脚注[編集]
- ↑ 東宝映画争議(1948年)資料 東京大学社会科学研究所図書室
- ↑ 佃實夫ほか編『現代日本執筆者大事典 第4巻 (人名 ひ~わ)』日外アソシエーツ、1978年、406頁
- ↑ 『ふるさとのおもちゃ――郷土玩具の魅力』著者紹介
- ↑ 名誉役員と顧問を承認 日本共産党中央委員会(1997年9月26日)
- ↑ 地下街二十四時間 Movie Walker
参考文献[編集]
- 宮森繁 『東宝争議追想――来なかったのは軍艦だけ』 光陽出版社、2002年