婁圭
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婁 圭(ろう けい、生没年不詳)は、中国の後漢末期の武将・政治家。字は子伯(しはく)[1]。
生涯[編集]
荊州南陽郡の出身[1]。初平年間(190年から193年)に董卓に対抗するために荊州北部で兵を集めて劉表と連携する[1]。後に曹操に仕えた[1]。曹操は大将に任命するが軍の指揮はさせず、常に会議で議論させたという[1]。曹操が華北を平定すると子供と遊びに行ったが、その際に「この親子は今日のように楽しんだことはあったかな」と言い、これを漏れ聞いた曹操は誹謗と判断して処刑したという[1]。
曹操に「子伯の立てる計略は、わしも及ばぬ」と評されたほどの智謀の持ち主だった。
『三国志演義』では京兆の出身に変更され、終南山に隠棲して夢梅居士を名乗る人物として描かれ、馬超討伐の際に曹操に氷の城の秘策を授けた[1]。