天皇機関説事件
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天皇機関説事件(てんのうきかんせつじけん)とは、昭和10年(1935年)に発生した日本の事件である。
概要[編集]
当時の憲法学者である美濃部達吉は貴族院議員でもあり、美濃部は「大日本帝国憲法下における天皇は法人としての国家の最高機関とする」、すなわち「国の統治権の主体は国家にあり、天皇はその最高機関である」とした天皇機関説を自らの学説として唱えていた。この美濃部の学説に対し、当時台頭していた軍部や右翼団体が反発する。そして昭和10年(1935年)2月、貴族院本会議で陸軍出身者の菊池武夫が「学匪の所説」などと批判して政治問題化してしまう。美濃部は天皇に対する不敬罪で告発され、貴族院議員を辞職するように追い込まれたうえ、自らの著作は発禁処分とされた。さらに8月と10月に当時の日本政府は国体明徴声明を出して、天皇機関説の排除を公的に表明し、天皇の統治権は絶対とする考え方を浸透させた。
さらに昭和11年(1936年)2月には、自宅を訪れた暴漢に銃撃されて美濃部は重傷を負った。こうして天皇絶対の前に学問の自由は否定され、結果的に軍部とファシズムが台頭する結果となった。