和田垣謙三
ナビゲーションに移動
検索に移動
和田垣 謙三(わだがき けんぞう、万延元年6月14日(1860年7月31日) - 大正8年(1919年)7月18日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の経済学者・法学博士。
生涯[編集]
但馬豊岡藩士・和田垣譲の3男[1]。東京帝国大学を卒業した後、イギリスに留学して経済学や農政学を修めて日本に帰国する[1]。以後、東京大学法科大学、同農科大学の講師となり、さらに民間実業教育の普及に努めた[1]。さらに法学博士となり、英和辞典や和英辞典、法制や経済に関する著書を多く著わした[1]。
『坪井日記』によると和田垣は若い頃から大変な酒好きで、東京の酒家に迎えられない者のほうが稀だったというほどで、それが原因で体調を崩しており晩年にようやく摂生したが既に手遅れで腎臓を患っていたという。大正7年(1918年)4月になると、和田垣は腎臓病で病臥に臥し、6月2日に東京大学病院に入院する。この頃には既に腎臓炎が重くなっており、一時期には重体に陥った。食事を摂ることもままならず、尿を300瓦も排出したという。そして7月18日午後8時40分、腎臓炎のために死去した。享年60[1]。