利用者:蓼食う蟲も好き嫌いあり/sandbox

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
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宮本武蔵(みやもと むさし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての兵法家二天一流の開祖であり、晩年は五輪書を著したとされる。彼の逸話として吉岡一門との決闘や、宍戸梅軒との決闘、そして生涯の好敵手とされる佐々木小次郎との決闘である巌流島の決闘が武蔵の輝かしい戦績として有名だが、それらは吉川英治の『宮本武蔵』をはじめとする後世の創作が大きい。

本項目では史実の宮本武蔵の生涯と、吉川英治の小説に登場する宮本武蔵の生涯を比較して執筆しようと思う。念のため記載しておくが、本記事にある文は全て著作権が切れている。

凡例[編集]

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五輪書 - (五輪書の記載を記述。)
吉川英治 - (吉川英治著の宮本武蔵の記載を記述。)
差異 - (史実の武蔵と吉川英治著の宮本武蔵とに見られた差異を記述。)

生涯[編集]

少年期 - 生年期[編集]

五輪書 - 天正12年、播磨国にて生まれる[五輪 1]
小倉碑文 - 天正12年、播州(播磨国と同義)にて生まれる[小倉 1]
吉川英治 - 天正12年、美作国吉野郷宮本村にて生まれる[吉川 1]
差異 - 五輪書、小倉碑文ともに武蔵の出生は播磨国と記してあり、武蔵は播磨で生まれたことは確定であるのだが、何故か吉川は美作国説を採っており、随筆でも播磨は生国ではないとしている。
五輪書 - 文禄4年、新当流有馬喜兵衛との決闘で勝利する[五輪 2]
小倉碑文 - 文禄3年、または4年、播州(播磨国と同義)の有馬喜兵衛との決闘で勝利する[小倉 2]
吉川英治 - 文禄4年、有馬喜兵衛を打ち殺す[吉川 2]
差異 - 大筋は一緒だが、吉川は有馬喜兵衛を打ち殺したとしている。また、文中に「近郷」とあるため、吉川は喜兵衛を美作で討ったとしている可能性もある。

脚注[編集]

原文[編集]

五輪書[編集]

  1. 「時に寛永二十年十月上旬の頃九州肥後の地巌殿山に上り天を拝し観音を礼し仏前に向ひ生国播磨の武士新免武蔵藤原玄信年つもりて六十。」
  2. 「我若年のむかしより兵法の道に心をかけ十三歳にして初て勝負を為す。その相手新当流の有馬喜兵衛といふ。」

小倉碑文[編集]

  1. 播州の英産、赤松の末葉、新免の後裔、武蔵玄信、二天と号す。」
  2. 「方に年十三にして始む。播州に到り、新当流、有馬喜兵衛なる者と進んで雌雄を決し、忽ち勝利を得たり。」

吉川英治『宮本武蔵』[編集]

  1. 「間もなく、父の方からは、追手が来て、九歳の彼は、裸馬の背に縛られて、播州からふたたび、美作の吉野郷宮本村へ連れもどされた。」
  2. 十二、三には、もう大人に近い背丈せたけがあった。或る年、村へ金箔磨はくみがきの高札を立てて、近郷の者に試合を挑みに来た有馬喜兵衛という武者修行の者を、矢来の中で打ち殺した時は(略)」