児玉光雄 (被爆者)
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児玉 光雄(こだま みつお、昭和7年(1932年)9月 - 令和2年(2020年)10月28日)は、広島原爆の被爆者である。
略歴[編集]
比治山国民学校卒業後、昭和20年(1945年)8月6日、広島市への原爆投下の際、12歳だった児玉は爆心地からおよそ870メートルの地点にあった旧制広島一中で被爆し、353人の生徒、16人の教職員が被爆死する中で、児玉が最後の生存者となった。広島大学卒業後は、郷里の役場に就職し、農林省国際農友会派遣スイス留学を経て帰国後、牧場を経営した。その後西武流通グループ会社に転職し、60歳で退職した。その後児玉は恐らく原爆による後遺症で、直腸癌、胃癌、甲状腺癌、皮膚癌など、20回以上に及ぶ癌を患い、何度も手術を受けるなど闘病生活を続けてきた。日米共同で運営する放射線影響研究所(放影研)の検査で、染色体に異常が見つかり、その証拠を示す写真を手に被爆の証言活動を続けた。平成28年(2016年)には自身の体験を英語で記した著書「HIBAKUSHA」を出版した。
令和2年(2020年)10月28日午後1時13分、左腎細胞癌のため、広島市南区の病院で死去した。88歳没。
著書[編集]
- 『原子野を生きのびて』広島大学文学館(2009年)