偶像崇拝
ナビゲーションに移動
検索に移動
偶像崇拝(ぐうぞうすうはい、英:Idolatry)とは、人の作った物を崇拝する行為。偶像礼拝と言う場合もある。プロテスタント諸派は「偶像礼拝」と言う場合が多く、エホ証は「偶像崇拝」を使う場合が多い。
概要[編集]
偶像崇拝は聖書の中で禁忌である。罪の中で(特殊なものを除けば)最大級の罪とされている。
神が偶像崇拝を毛嫌いする理由は、以下の聖句から分かる。
彼らの偶像はしろがねと、こがねで、人の手のわざである。それは口があっても語ることができない。目があっても見ることができない。耳があっても聞くことができない。鼻があってもかぐことができない。手があっても取ることができない。足があっても歩くことができない。また、のどから声を出すこともできない。これを造る者と、これに信頼する者とはみな、これと等しい者になる。 — 詩篇(口語訳)115章4節から8節
つまり、偶像は全くの無能。それを全能の神、ヤハウェと同列に置くと、全能者が『無能な奴らと一緒にするな!』とひどく切れるのも無理もない。
実際にヤハウェが切れた例[編集]
子牛の像[編集]
- ご自分の民に対しても容赦ないくらいに激しく怒る。
主はモーセに言われた、「急いで下りなさい。あなたがエジプトの国から導きのぼったあなたの民は悪いことをした。彼らは早くもわたしが命じた道を離れ、自分のために鋳物の子牛を造り、これを拝み、これに犠牲をささげて、『イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である』と言っている」。主はまたモーセに言われた、「わたしはこの民を見た。これはかたくなな民である。それで、わたしをとめるな。わたしの怒りは彼らにむかって燃え、彼らを滅ぼしつくすであろう。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とするであろう」。 — 出エジプト記(口語訳)32章7節から10節
ダゴンの像を切断[編集]
- サムエル記上の5章では、神の箱がペリシテ人に奪われてダゴンの宮に置かれた際、ダゴンの像は無残な姿になった。
ペリシテびとは神の箱をぶんどって、エベネゼルからアシドドに運んできた。そしてペリシテびとはその神の箱を取ってダゴンの宮に運びこみ、ダゴンのかたわらに置いた。アシドドの人々が、次の日、早く起きて見ると、ダゴンが主の箱の前に、うつむきに地に倒れていたので、彼らはダゴンを起して、それをもとの所に置いた。その次の朝また早く起きて見ると、ダゴンはまた、主の箱の前に、うつむきに地に倒れていた。そしてダゴンの頭と両手とは切れて離れ、しきいの上にあり、ダゴンはただ胴体だけとなっていた。 — サムエル記上(口語訳)5章1節から4節
仏像や大仏について[編集]
イスラム教の過激派により仏像や大仏などが偶像崇拝と認定され破壊される虞がある事はバーミヤンの大仏の例を見ても明らか[1]。
何か対策が必要かもしれないが、ヤハウェ自身が動き出すと人間にはどうする事もできないという事になる。
特殊な例[編集]
- 金の子牛
- アロンは金の子牛を造ったが処刑を免れている。理由ははっきりしないが、記述を見るとアロンは民を怖れていたのでその要求に応じただけのように見えないこともない[4]。
- 青銅の蛇
- 青銅の蛇はヤハウェが直接モーセに指示して造らせたものだが、作った当初は偶像扱いされていない[5]。その青銅の蛇に香を炊いたときには偶像崇拝と見なされた[6]。神から命じられて像を作っても神に背いたことにはならないが、それを拝むことは偶像崇拝になる[7]。
脚注[編集]
関連項目[編集]