上野東照宮
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上野東照宮(うえのとうしょうぐう)は、東京都台東区上野公園に鎮座する徳川家康・徳川吉宗・徳川慶喜を祀る神社である。四大東照宮の一つと言われる。
彰義隊の上野戦争では被災せず、関東大震災でも倒壊せず、第二次世界大戦時の東京大空襲においても、爆弾が付近に投下されたが不発弾であった。境内には「ぼたん苑」がある。文化財保護の為、社殿内は非公開となっていたが、2014年(平成26年)から拝観料500円で透塀内を見学できる。
藤堂家の墓所は現在の上野動物園内にあったが、明治維新以降は豊島区駒込の染井霊園に移転した。
沿革[編集]
- 1616年(元和2年)2月4日、天海僧正と藤堂高虎は徳川家康の臨終の枕元に招かれ、末永く魂鎮まるところを作って欲しいと遺言される。
- 1622年、天海僧正は幕府から忍ケ丘の地を拝領し、東叡山寛永寺を開山する。
- 1623年(元和9年)、藤堂高虎は上野忍ヶ岡の下屋敷に小祠を建て神社「東照社」を創建したと伝えられる[1]。
- 1627年(寛永4年)3月、藤堂高虎は「東照社」の造替工事に着工し、同年9月17日に正遷宮が行われた。本殿、拝殿、御供所が作られた[1]。
- 1631年(寛永8年)、藤堂高虎は回廊、瑞垣を設ける。
- 1633年(寛永10年)、酒井忠世が石鳥居を奉納する[1]。
- 1645年(正保2年)、社領200石が寄進された[1]。
- 1646年(正保3年)、朝廷より正式に宮号を授けられ「東照宮」となる。
- 1650年(慶安3年)6月2日、三代将軍徳川家光は大規模な造営替えに着手した。総奉行は老中の阿部重治、大工頭は木原義久、棟梁は鶴飛騨。
- 1651年(慶安4年)3月、老中の阿部重次が水舎(現在の水舎門)を奉納。
- 1651年(慶安4年)4月6日、上棟(現存する建築)。4月16日夜に正遷宮を行う。
- 1651年(慶安4年)4月17日、有力大名、諸門跡、公卿が参列した。徳川家光は病気のため名代参列[1]。導師は日光門跡の守澄法親王であった。
- 1868年(明治元年)3月28日の「神仏判然令」(明治の神仏分離)により、神社として寛永寺より独立する。
概要[編集]
- 名称:東照宮
- 御祭神:徳川家康・徳川吉宗・徳川慶喜
- 所在地:〒110-0007 東京都台東区上野公園9-88
- 形式:権現造り(拝殿、幣殿(石の間)、本殿から構成される)
- 指定:国指定重要文化財 本社(本殿・幣殿・拝殿(金色殿))、唐門(左甚五郎作龍)・透塀・銅燈籠(御三家奉納)・大石鳥居(表参道)・棟札(4枚、付指定)
- 交通:JR東日本(山手線・高崎線・常磐線・東北新幹線など)「上野駅」公園口より徒歩5分
- 銅灯籠:全48基。国指定重要文化財。諸大名から奉納された。唐門両側の6基は、内側より紀伊・水戸・尾張の徳川御三家より2基ずつ寄進されたものである。
- 大石鳥居:1633年(寛永10年)に酒井忠世が奉納。国指定重要文化財。
- 石灯籠:200基以上あるが、ほとんどが1651年(慶安4年)に諸大名より奉納されたものである。
- 唐門:正式名称は「唐破風造り四脚門」。柱内外の四額面に左甚五郎作の昇り龍・降り龍の彫刻がある。
- 透塀:菱格子の向こう側が透けて見える。
- 水舎門:社殿手前の御水屋として使用されていたものを、上屋だけ1964年に門として移築し転用したもの。現水舎の設置されている水鉢の右側に「従四位下阿部対馬守藤原朝臣重次」と書かれており、左側に「慶安四年猛春吉辰」と記載がある。現在の水舎は、1873年(明治6年)、新門辰五郎が寄進したと言われる。
- 神楽殿:1874年(明治7年)、深川木場組合奉納。