バート・ランカスター
バート・ランカスター(Burton Stephen Lancaster,1913年11月2日 - 1994年10月20日)はアメリカ生まれの国際的映画俳優・プロデューサーである。
活動[編集]
デビュー前[編集]
1913年、ニューヨークのマンハッタン生まれで、プロテスタントの家であった。父ジェイムズ・ランカスターは郵便配達だが労働者階級の貧しい家であった。祖父祖母はアイルランドからの移民である。デウィットクリントン高校でバスケットボールの選手として活躍した。少年時代から映画が好きで、銀幕で大活躍するフェアバンクスやヴァレンティノを観て育った。高校卒業後は、スポーツ奨学金を得てニューヨーク大学に進学するが、中退する。ユニオン・セツルメントで1932年から“ラング&クラヴァット”というアクロバット・チームを結成し、サーカスなどを回る。1939年に負傷し、チームは解散し、プロになることを諦める。
その後は、レストランの歌うウェイター、百貨店のセールスマン、消防士、などの職業を転々とする。第二次大戦では1942年にアメリカ陸軍に入隊する。慰問団で劇の演出や出演を行う。1943年から1945年までイタリアに進駐した。 除隊後はニューヨークで職探しをしていた時、当時の彼女を訪問したとき、エレベーターで舞台プロデューサーと出会いオーディションを受けた。オーディションに合格し、「Eight Iron Men」1945年にブロードウェイに32歳でデビューした。劇は3週間だけだったが、彼の演技にハロルド・ヘクトは魅力を感じた。他の申し込みもあったが、ヘクトは5年間のハリウッドの映画出演を申し出た。ヘクトを通じてハル・B・ウォリスと非専属的な8年間の契約を締結した。
映画出演[編集]
1947年『砂漠の怒り』[1]( パラマウントピクチャーズ)がデビュー作の予定であったが、テクニカラー撮影の準備に手間取ったため、マーク・ヘリンジャーがランカスターを誘い、空き時間のスケジュール調整でユニバーサルに貸し出され、1946年『殺人者』(ユニバーサル・ピクチャーズ)で映画デビューした。『殺人者』は短編であるがヒットした。アカデミー監督賞と最優秀映画編集賞を含む4つのアカデミー賞にノミネートされた。米国議会図書館は「文化的、歴史的、または美的に重要」として、米国国立フィルム登録簿に掲載された。マーク・ヘリンジャーは1947年『真昼の暴動』で再びバート・ランカスターを起用する。 次の映画は1947年『私はひとりで歩きます』などフィルム・ノワール映画を中心に活躍した。
バート・ランカスターはハリウッド・システムの映画製作に疑問を感じるようになり、ハロルド・ヘクトと組んで独立プロダクション1948年「ノーマプロダクション」を設立し、ユニバーサルと契約した。1955年「ヘクト-ランカスター・プロダクション」と名称を変更し、対等のパートナーとなった。ハリウッドで最大かつ最も重要な独立プロダクションとなる。1953年には『地上より永遠に』に主演した。興行収入は大ヒットし、映画は最優秀作品賞を含む8つの第26回アカデミー賞(1954年)を受賞し、ランカスターはアカデミー主演男優賞にノミネートされた。1957年には西部劇映画の名作『OK牧場の決斗』で伝説的保安官ワイアット・アープを演じ、カーク・ダグラスと共演した。
アカデミー賞[編集]
1960年のアメリカ合衆国の映画『エルマー・ガントリー/魅せられた男』ではバート・ランカスターとジーン・シモンズが主演となり、第33回アカデミー賞において主演男優賞を獲得し、オファーは1947年であったが、映画化の実現に13年を要した。1961年には『ニュールンベルグ裁判』に出演したが、男優賞はマクシミリアンシェルが得た。映画は「文化的、歴史的、または美的に重要」であるとして、米国国立フィルム登録簿に登録された。1962年の映画『終身犯』では、第35回アカデミー賞4部門(主演男優賞、助演男優賞、助演女優賞、撮影賞(白黒作品部門))でノミネートされたが、『アラバマ物語』のグレゴリー・ペックが受賞した。バート・ランカスターはヴェネツィア国際映画祭 男優賞と英国アカデミー賞 主演男優賞を受賞した。
ヴィスコンティ映画への出演[編集]
1963年の『山猫』は巨匠のルキノ・ヴィスコンティ監督により撮影され、共演はアラン・ドロンとクラウディア・カルディナーレだった。フランスでは大ヒットしたが、米国ではヒットしなかった。今日では映画の古典のひとつと見られている。ランカスターはヴィスコンティを「私が今まで一緒に働いた中で最高の監督」と称えた。ランカスターのシーンはすべて英語で撮影され、イタリア語版ではイタリア語に吹き替えられた。1963年のカンヌ映画祭でヴィスコンティはパルムドールを獲得した。
アーサー・ヘイリーによる同名の小説を原作とした1970年映画『空港』は第43回アカデミー賞では最多10部門にノミネートされた。バート・ランカスター、ディーン・マーティン、ジーン・セバーグ、ジャクリーン・ビセットなど有名俳優総出演のオールスターキャストで巨額の製作費をかけたサスペンス映画であった。
公民権運動[編集]
米国の首都ワシントンで1963年夏、公民権運動の大規模な行進が行われ、バート・ランカスターは『大列車作戦』のイベントでフランスにいたが、アメリカに戻り、公民権運動のスピーチを行い、フランスに戻った。バート・ランカスターはジェームズ・ボールドウィンの代わりに原稿を読むように頼まれた。俳優のチャールトン・ヘストンは公民権運動の旗振り役の1人であった。行進の主唱者のひとりは、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師であった。ボブ・ディラン、マヘリア・ジャクソン、ハリー・ベラフォンテ、シドニー・ポワチエらも参加した。キング牧師の「私には夢がある」の演説は有名である。
英国アカデミー賞 主演男優賞[編集]
1980年、ルイ・マル監督によるフランス・カナダ映画『アトランティック・シティ』で英国アカデミー賞主演男優賞を得た。またボストン映画批評家協会賞主演男優賞、第16回全米映画批評家協会賞・第2回ボストン映画批評家協会賞でも主演男優賞を得ている。
遺作[編集]
1991年にシドニー・ポワチエと共演したテレビ映画『裁かれた壁〜アメリカ・平等への闘い』が遺作となった。1994年10月20日4:50に3回目の心臓発作を起こした後、80歳で亡くなった。
注[編集]
- ↑ 本邦劇場未公開。州警察の執行官役。ポスター序列はリザベス・スコット、ジョン・ホーディアック、バート・ランカスターの順であった。