ルキノ・ヴィスコンティ

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

ルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti, 1906年11月2日 - 1976年3月17日)はイタリアのオペラ演出家、映画監督、脚本家である。

概要[編集]

幼少期[編集]

イタリア・ミラノの貴族の家に生まれる。父は北イタリアの貴族モドローネ公爵ジュゼッペ・ヴィスコンティ、母親は資産家の娘カルロ・ヴィスコンティである。7人の子の一人である。ヴィスコンテ家は1277年から1447年までミラノを支配した家系である。1920年に両親が離婚した後、ルキノは母親につきミラノの家で育つ。父はミラノ芸術演劇座を興し、ミラノスカラ座オペラのボックス席を所有していた。幼少期はチェリストで作曲家のロレンツォ・デ・パオリスからチェロを学び、ジャコモ・プッチーニ、指揮者のトスカニーニ、作家のガブリエーレ・ダンヌンツィオと知り合う。

修業時代[編集]

戦前のパリに渡ったのは、1936年、ルキノが30歳のときであった。パリでは映画をみて、エーリッヒ・フォン・シュトロハイムの『結婚行進曲』、ジョゼフ・フォン・スタンバーグの『嘆きの天使』、レゴーシンの『孤帆は白む』などに感銘を受けた。その頃マドモアゼル シャネルに出会い、衝撃を受ける。ヴィスコンティはシャネルをイタリアに招き、家族に紹介した。シャネルの紹介でフランス・パリの上流社交界に顔を出したルキノは、劇作家アンリ・ベルンスタイン、詩人ジャン・コクトー、舞踏家セルジュ・リファール、作曲家クルト・ヴァイルなどの文化人と知り合った。

ココ・シャネルは自分の友人ジャン・ルノワールを紹介した。映画監督として巨匠となっていたルノワールは、当時はまだ無名のヴィスコンティを助監督に起用したほか、シャネルが協力した代表作『どん底』と『ピクニック』の2作品では衣装を担当させた。ヴィスコンティは、まだ将来の進路を決めていなかったが、この経験から映画製作を主軸とする決心をした。

映画監督[編集]

ヴィスコンティの処女作は『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(1943年)であった。アメリカの作家であるM・ケインの同名小説の映画化であるが、戦争中であったため許可を得られず、映画にクレジット表示はない。フランスの巨匠ジャン・ルノワールのもとで映画修行を終えて撮った第一作である。ファシスト政権下の北イタリアでオールロケを行った。完成後、イタリアでは公開2日で上映中止となった。反ファシズムの影もちらつく上、当時の緊迫した情勢で不倫を美しく扱うことは許されなかったのであろう。 1939年版(フランス)から1981年版(アメリカ)まで、4度に渡り映画化されたが、ヴィスコンティ版がベストであることは、衆目が一致する。ドライなリアリズム、当時のイタリアの荒涼とした風景、ダイナミックな酒場のシーンなど、どのショットも美しく、カメラワークは優れている。作品中歌唱コンテストで、イタリア・オペラのアリアが歌われるが、その歌詞は劇中で重要な意味をもつことに気付く人は少ない。当時は24歳の駆け出し俳優のマッシモ・ジロッティと34歳のクララ・カラマイを組み合わせた主役は絶妙であった。

(続く)