デンマーク領西インド諸島
デンマーク領西インド諸島(デンマークりょうにしインドしょとう、デンマーク語:Dansk Vestindien、英語: Danish West Indies)は、かつてデンマークがカリブ海に保有していた植民地である。西インド諸島での奴隷貿易の拠点であったことで知られている。
首都は、当初セント・トーマス島のシャーロット・アマリーに置かれていたが、のちにセント・クロイ島のクリスチャンステッドに移転された。植民地の売却までの数年間、再びシャーロット・アマリーに遷都したとする資料があるが、確証が持てない。
地勢[編集]
セント・トーマス島、セント・クロイ島、セント・ジョン島の三つの大きな島と、周辺の小さな島々からなる。
なお以下、島名のセントを省略する。
どの島も肥沃な土壌を持ち、サトウキビのプランテーション農業が盛んに行われていた。トーマス島・ジョン島は火山由来で起伏が多かったのに対し、クロイ島はサンゴ礁由来で平地が多く、特に多くの奴隷が導入された。
植民地内の都市としては、シャーロット・アマリーとクリスチャンステッドが挙げられる。シャーロット・アマリーは、湾の地形を生かした天然の良港として繁栄したものの、全体として起伏が大きく平地が少ないことから早くに衰退した。一方のクリスチャンステッドは、広い土地を生かした格子状の計画都市で、クロイ島に移送された奴隷の多くがここに住んでいた。奴隷貿易の繁栄とともに人口が増加し、一時宗主国の首都コペンハーゲンを超えるまでになったが、奴隷貿易の廃止を経て大幅に減少した。
トーマス島とジョン島はすぐ近くで隣り合っているが、クロイ島は2つの島から数十キロ離れている。そのため、アメリカ領となった現在、トーマス島とジョン島のみを訪れて帰る観光客が多く、クロイ島は観光客の減少と経済の悪化にあえいでいる。
歴史[編集]
- 1490年代 コロンブスが西インド諸島を発見。西洋人の西インド諸島進出が始まる。
- 16世紀 スペイン・ポルトガル・イギリス・フランスなどの列強がこの地域への入植を試みる。しかし、特にめぼしい資源がなかったため、トーマス島とジョン島にはどの国も定着しなかった。例外的に、クロイ島にはフランス人が進出した。
列強各国は、トーマス島とジョン島に定住こそしなかったものの、探索の段階で原住民アラワク族と対立した。その際、抵抗する原住民を近代兵器で虐殺、各島は無人島となってしまった。
- 1652年 デンマーク王フレデリック3世が、トーマス島への入植を指示。同時に、西インド諸島への渡航経験のあるニールセン・スミットをトーマス島の総督に任命した。
- 1671年 デンマーク王クリスチャン5世が、勅許会社のデンマーク西インド会社を設立。同社は、西インド諸島において徴税などの特権を持つとされた。
- 1672年 デンマーク人とノルウェー人190人が、トーマス島に入植。入植の参加者は広く募集されたが、熱帯病の恐れから自由意思で参加した人は少なく、移民の多くは役人や囚人だった。航海の道中や開拓の際の重労働で多くが亡くなり、入植二年目にトーマス島で生き残ったのはわずか29人であった。
- 1680年代 このころ、西インド諸島政府は海賊との結びつきを深め、海賊の駆除を進めていた英国と対立する。同時期、政府はビエケス島への入植を試みるも、英国に妨害され失敗した。
- 1718年 ジョン島への入植を開始。当時、イギリス領のバルバドスやアンギラでは深刻な干ばつが起きており、英軍にはデンマークに対抗する余裕がなかった。[1]
- 1733年 クロイ島をフランスから買収。代価は75万リーブルであった。[2]また同年、ジョン島で大規模な奴隷の反乱が起き、英仏軍の協力をもってしても鎮圧に半年を要した。
- 1762年 イギリスが、ジョン島でのデンマークの主権を承認。なお、このころが奴隷貿易の最盛期である。
- 1792年 西インド諸島政府が、大西洋を越えての奴隷貿易を全面的に禁止する。大西洋奴隷貿易の禁止はこれが世界初である。一方、西インド諸島の植民地同士での奴隷の交換は禁止されず、平然と続けられた。
ちなみに、奴隷貿易の禁止の理由は人道的なものではなく、「奴隷船が難破すると商人が赤字になる」という極めて経済的なものであった。
なお、この政策によって奴隷の減少が危ぶまれたため、政府は女性の奴隷を免税して女性の奴隷を増やした。これでは飽き足らず、黒人女性を集めた「赤ちゃん工場」なる施設で奴隷の子供を大量に産ませることが計画されたが、実行に移されることはなかった。
- 1802年 ナポレオン戦争に際し、イギリス軍がこの植民地を占領。デンマーク軍は戦わず、3つの島を無血で明け渡した。この占領は1815年まで続いた。
- 1848年 ピーター・フォン・ショルテン総督が、奴隷制を全面的に禁止。すべての奴隷は解放され、転職や移住などの権利を一部認められた。
しかし、医療費が雇用主ではなく奴隷持ちになり、収入の少なさから奴隷がほとんど医療を受けられなくなるなど、元奴隷からすれば手放しに喜べる変化ではなかった。
なお、デンマークの民族主義者の中には、この事実をもって「デンマークが世界で初めて奴隷制をやめた国だ」と主張する者がいるが、奴隷制はすでに英領ヴァージン諸島[3]で1833年に完全廃止されているため、これは間違いである。
- 1864年 デンマーク本国の議会にて、西インド諸島の植民地を売却することが決定される。奴隷貿易を禁じてからというもの収益性が低く、シュレーヴィヒ・ホルシュタイン戦争の敗北で国庫が圧迫されていたため、この判断は必然的であったといえる。
- 1873年 元奴隷が、ファイヤーバーンと呼ばれる大暴動を起こした。[4]一連の暴動が、衰退しつつあった植民地の経済にとどめを刺した。
奴隷制度について[編集]
デンマーク領西インド諸島に、奴隷制が存在してきたことは前述のとおりである。しかし、デンマーク国立博物館の資料によれば、奴隷の中にも階級があったようである。
以下、デンマーク国立博物館の英語HPに準じた表記とする。和訳募集中。
- Field Slaves
もっとも階級の低い奴隷。サトウキビ畑の農作業や、製糖工場での製糖作業、港での荷役など、重労働を強いられていた。小作人のような境遇で、白人の農場主に絶対服従していた。製糖機械に腕を挟まれて切断、といった命に係わる事故は日常茶飯事であった。
- Craftsmen
建築や鍛冶といった、手に職を持っていた奴隷。階級の高い奴隷や白人と交易し、わずかではあるが現金収入を得ることができた。植民地の自給自足にあたって、大きな役割を果たしていた。
- House Slaves
白人の家に住み込み、使用人や料理人、乳母として働く女性の奴隷。早朝から深夜までの重労働であることはほかの奴隷と同じだが、白人の支配者層と接触するため、衣料や食料などには恵まれていた。白人の男性から性的暴行を受けることがあったという。
- Bomba
奴隷の中では最も高い階級。働きのいい奴隷から選抜された。奴隷ではあるものの、ほかの奴隷を管理する立場にあった。白人のいないプランテーションでは、事実上の経営者になることもあった。
一般の奴隷からは、白人と同じように恐れられてはいたものの、同じ黒人として敬意を寄せるものも少なくなかったという。
その他[編集]
- 植民地の通貨は「西インド諸島リグスダラー」であり、本国のクローナではなかった。ダラーの名前はドルに由来する。これは、植民地とアメリカ合衆国との間に深いつながりがあったことに由来する。
- デンマーク領であったものの、支配層の白人は日常的に英語を話していた。これは、西インド諸島から宗主国のデンマークがあまりにも遠く、白人支配者層がアメリカで高等教育を受けていたことに由来する。ギニア湾岸各地から連れ去られた奴隷もまた、共通語として英語を使用していた。
- デンマーク領ではあったものの、デンマーク政府は植民地の経営にほとんど関わらず、実務は民間の奴隷商人に委託した。そのくせ、政府は奴隷を資産として扱い、厳しく課税した。脱税のため、多くの農場主が奴隷の数を過少報告していた。
- 白人支配者層は、黒人奴隷をよそ目に優雅な暮らしをしている…のかといえばそうでもなく、熱帯病や、固定された人間関係による閉塞感、奴隷の反乱に対する不安などでストレスフルな生活を送っていたという。
- 植民地に近代的な司法制度は存在せず、悪行の疑いをかけられた奴隷は、必ず手足を一本切られる決まりになっていた。
参考文献[編集]
脚注[編集]
- ↑ デンマーク側は当時この情報を掴んでいなかったため、奇跡的に好機に当たったことになる。
- ↑ フランスフランの価値が一定であると仮定すると、現在の価値で1600万円
- ↑ デンマーク領西インド諸島のすぐ右隣り
- ↑ 元奴隷の農夫ヘンリー・トロットマンが警察に不当に逮捕されたといううわさが広がり、それに反対した元奴隷がクリスチャンステッドで蜂起した。元奴隷は非武装ながら非常に興奮しており、クリスチャンステッドの市街地を焼き払ったのち、軍の駐留する砦へ殺到した。市街地の火は農地にも延焼し、多くの納屋(バーン)が焼けた。
- ↑ 第一次世界大戦の真っ只中、パナマ運河に敵国ドイツ軍の潜水艦が現れることを恐れたアメリカ軍は、西インド諸島に海軍の根拠地を欲しがっていた。そこで、デンマークと利害が一致したのであった。