シャクシャインの乱

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シャクシャインの乱(シャクシャインのらん)とは、寛文9年(1669年)6月に発生した蝦夷地北海道)におけるアイヌ民族による反乱である。シャクシャインの戦い寛文蝦夷蜂起シャクシャインの蜂起などとも言われている。

概要[編集]

江戸時代の北海道は松前藩により支配されていた。松前藩は徳川家康からアイヌ人との交易権を任され、それを後ろ盾に商場知行制を進めていった。つまり、アイヌ人の自由な交易権が否定され、場所請負商人らによる交易が進められていったのである。この場所請負商人とは松前藩から交易権を委託された商人であり、つまり藩の後ろ盾があるのを良いことに不正を繰り返していた。さらに松前藩が設けた砂金採取場、鷹場などがアイヌの漁猟場を荒らしたため、アイヌは危機的状態に追い込まれていった。

このような中で、現在の日高から釧路一帯のアイヌ人を統括していた染退の首長・シャクシャインが松前藩の交易独占体制を打破すること大義名分として、蝦夷地全土のアイヌに対して抵抗することを呼び掛けて蜂起した。この反乱は石狩アイヌを除く大半のアイヌが参加し、一時は和人の商船19隻が襲撃され、金堀夫や鷹待、商人など合わせて273名が殺害されるなど、当初はアイヌ側が優勢だった。というのも、当時の松前藩主・松前矩広が幼児であり、即座の対応ができなかったためである。

江戸幕府もこの反乱を重く見て、矩広の従祖父で旗本松前泰広に指揮権を与えて一刻も鎮圧するように命じた上、弘前藩津軽氏に対しても援軍を派遣するように命じた。泰広は直ちに松前に赴いて陣頭指揮を執り、まずは国縫でアイヌの先鋒隊を蹴散らした。そして10月にシャクシャインに対して講和を持ちかける。この和睦は謀略で、和睦成立の祝宴が行なわれていたピポク(現在の新冠町)でシャクシャインを謀殺するに至った。泰広は首謀者のシャクシャインすら葬り去れば何とかなると考えたのである。

シャクシャインを失ったアイヌ側は、その後も2年にわたって抵抗した。しかし、寛文11年(1671年)に白老が平定されて、反乱は終結した。

この反乱により、松前藩はアイヌに対する支配を一段と強化した。ただし一方で、松前藩は商人の不正も厳しく取り締まって穏健政策も用いるなど譲歩も見せている。

関連作品[編集]

小説
  • 新谷行『シャクシャインの歌 ― 長編詩』(1971年、蒼海出版)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]