鶴田藩
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鶴田藩(たづたはん)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期にかけて美作国鶴田において存在した藩である。藩庁は鶴田陣屋。藩主家は親藩の越智松平家。現在の岡山県岡山市北区建部町(旧御津郡建部町)に存在した。
概要[編集]
慶応2年(1866年)、第2次長州征伐において幕府軍は長州藩の軍勢に敗れ、幕府に味方して石州口を攻めていた浜田藩は長州軍に逆侵攻された。藩庁の浜田城は長州軍によって落とされ、当時の浜田藩主・松平武聰は出雲国松江藩に逃れた。
慶応3年(1867年)、武聰は美作国鶴田にある浜田藩の飛び地に移り、里公文村に陣屋を設けて藩庁とした。美作5郡の内、2万7000石を領し、ここに鶴田藩が立藩した。浜田領は長州藩に占領されて帰還できなかったのである。
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いが起きると、武聰は幕府軍に属したので、戦後に罪に問われたが家老の尾関当遵(隼人)が謝罪して自らが自害することで許され、藩の存続が認められた。また、明治2年(1869年)の版籍奉還によって石高が明治政府により元の6万1000石に戻された。明治4年(1871年)、廃藩置県によって鶴田藩は消滅した。
歴代藩主[編集]
松平〔越智〕家[編集]
親藩 2万7000石→6万1000石