青木重臣

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青木 重臣(あおき しげとみ、1900年8月6日 - 1982年4月21日)は、日本警察官僚、初代愛媛県知事。従五位勲五等。

経歴[編集]

1900年8月6日長野県更級郡牧郷村に青木善蔵の三男として生まれる。1927年、京都帝国大学法学部を卒業し、文官高等試験行政科に合格し、内務省に入省する。陸軍少尉、千葉県警察部長、福島県内政部長、石川県部長をへて、昭和20年時は広島県部長・第42代警察部長であった。 1945年8月6日の原爆投下では重傷を負うが助かった。 青木は、碁好きで、橋本宇太郎とも懇意であった。そのため空襲下の広島市でタイトル戦を打つことには反対であった。記録係に「碁を打ち始めたら直ちに知らせよ」と厳命した。第一局が打たれたことに青木は怒り、橋本も怖いと言いだした。岩本薫が藤井に頭を下げ、藤井はしぶしぶ了承し、用意した物資を提供した。第二局は10キロほど離れた五日市町吉見園(現広島県広島市佐伯区吉見園)で行われたが、この判断が岩本と橋本の命を救う事になる。原爆により、藤井を始め広島支部のメンバーは全員が死亡した。その後、橋本は原爆症と推定される嘔吐や夜尿に悩まされた。 1946年10月、愛媛県知事に任官。翌1947年3月に退官し、4月の第1回愛媛県知事選挙に出馬して当選する。

深川製材所[編集]

昭和十年ごろ深川製材所のロックアウトで、浅沼稲次郎が強引に鍵を壊して工場の中に入ると、会社側は御雇人夫を動員し、大乱闘になるところ、平野警察署長の青木重臣の命令で労使ともに検挙された。呉越同舟の刑務所内で、話がまとまり、労働争議が解決した。浅沼は青木署長は思い切ったことをすると語る[1]

参考文献[編集]

  1. 浅沼稲次郎(1998)『私の履歴書』日本図書センター,ISBN-10: 4820543172