身分統制令
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身分統制令(みぶんとうせいれい)とは、天正19年8月21日(1591年10月8日)に豊臣秀吉が発した法令である。
概要[編集]
法令について[編集]
『小早川家文書』にその法令の原文が残されている。
- 一、奉公人・侍・中間・小者・あらし子に至る迄、去る七月奥州へ御出勢より以後、新儀に町人・百姓に成候者これ在らば、其町中下人として相改め、一切をくべからず、若しかくし置に付ては、其の一町一在所御成敗を加へらるべき事。
- 一、在々百姓等、田畠を打ち捨て、或はあきない、或は賃仕事に罷り出ずる輩これ有らば、そのものの事は申すに及ばず、地下中御成敗たるべし
右条々、定めおかるる所件の如し。天正十九年八月廿一日 (秀吉朱印)
以上を現代語に訳すと次のようになる。
- 一、奉公人・侍・中間・小者・あらし子(荒仕事をする者。つまり雑役に従事する下級武士のこと)に至るまで、去年の7月の奥州の陣以降に新しく町人・百姓になった者がいれば、その町中の町人または農民全部の責任で調査し、一切置いてはいけない。もし、隠して置いているとその町や村全体を処罰する。
- 一、村々の百姓たちが田畠を捨てたり、商売や賃仕事に出かける者があれば、その者は当然ながら、村全体を処罰することにする。
右の各条項に定められたことは以上のとおりである。天正19年(1591年)8月21日。秀吉朱印
内容について[編集]
天正18年(1590年)の小田原征伐、そして奥州仕置によって、豊臣秀吉の天下統一は完成した。その背景をもって、この法令は兵農・商農の身分的分離の規定を定め、明確な身分関係の規定を秀吉が行なった「身分統制令」と見なされてきた。ただし近年ではこの統制令は中身や意義が疑われる部分も多く、朝鮮出兵による前段階として秀吉が定めたに過ぎないもの、という説も存在する。