赤羽・所沢戦争
赤羽・所沢戦争(あかばね・ところざわせんそう)は、ダイエーと西友(当時:西友ストアー)との間で展開された顧客争奪戦、及びそれに付随する価格の値下げ競争の俗称である。
前史[編集]
当時、近畿圏を拠点に規模を拡大させていたダイエーが首都圏へ本格的に乗り出すために発足した「首都圏レインボー作戦」の第1弾として、東京都町田市にダイエー原町田店(原町田ショッパーズプラザ、その後トポス→メディアバレー→グルメシティへの転換を経て2013年閉店)が1969年(昭和44年)に開業[1][2]。ダイエーは次なる東京都内の出店先を検討していた。
そのころ、北区赤羽の「スズラン通り商店街」(現:LaLaガーデン)ではダイエーを誘致しようという考えがあった。これは戦後に誕生した当商店街の他に戦前に開業した2つの商店街があり、時代の先取りを行なって商店街の活気を良くさせるのが狙いであったとされる。また、生鮮三品を取り扱う店が無かったことから当商店街内で摩擦が起こらなかった。
ダイエー側は、北の拠点と共に多数出店する際の土地を探し回るも、ライバルのイトーヨーカ堂や忠実屋、サンコーといった関東地方を主力としているスーパーが多数存在している場所であったこと、良い土地が見つかっても、社長であった中内㓛に「高い」と一蹴される等のことから50の出店候補地も実現したのは10箇所だという。そんな中、商店街側がダイエーに出店を要請してきて、尚且つ土地代が安いことから出店を決定した。
赤羽戦争[編集]
こうして赤羽出店を決めたダイエーであったが、出店予定地の近隣には西友ストアー赤羽店(現・西友赤羽店)が存在した[2]。西友赤羽店は地上7階建ての店舗で西友ストアー内では10位以内に入るトップクラスの大型店舗であった。当時、西日本ではダイエーが、東日本では西友がスーパー業界でトップであった。浦和で初めて対立した東西小売店の雄は、ここ赤羽で再び激しく衝突することとなった[3]。
ダイエーは、開業寸前の新聞に大4ページに渡るチラシを掲載。「一品たりとも西友ストアーより高い商品はありません」と書かれており、砂糖66円・マーガリン55円と爆発的な値段であった[4]。一方の西友も黙ってはいなかった。ダイエー開業2日前から3日間、ダイエーの内容より安い砂糖57円・マーガリン49円で販売。ダイエーに対抗した。
そして開業日、ダイエーは西友の値段に反応し、すぐに砂糖55円・マーガリン47円にして西友を牽制。ここから熾烈な値下げ競争が始まり、最終的には1丁1円の豆腐さえ登場したとされる。遂に西友は値下げ戦争から脱却し、グループとして高級路線に進むこととなった。こと値下げ競争に於いてはダイエーに事実上の軍配が上がったと言える。
所沢戦争[編集]
赤羽店の成功後、ダイエーは首都圏での名声を更に高めていった。その最中、西武グループのお膝元である埼玉県所沢市への所沢店出店を巡って、再び西友・西武と相見える事になった。
1973年に所沢の中心部であった日吉町の商店街が所沢駅前地区に対抗して商店街を再開発する動きが出ていた。商店街の土地を所有していた東栄の社長が土地を区画整理してさらに他の土地も買収し、大型店をキーテナントとして誘致するというものだった。商店街は初めに、地元の西武流通グループ(のちのセゾングループ)に出店を要請した。ところが、他人の作ったテナントに出店するのを嫌った[注 1]ことと、所沢駅前に西友ストアー所沢駅前店(以降、西友)が既に出店していたため、その要請を断った。
困った商店街は、同年10月にフジタ工業を通じてダイエーに出店を要請した。ダイエーグループにとっては店舗空白地帯[注 2]であり敵地(西友の本拠地)でもある所沢に乗り込むチャンスであった。同年11月にダイエーが出店の意向を示し、翌1974年10月には商店街側に正式に出店の申し入れを行った。
ダイエーの出店が判明した際、西武グループは焦りに焦ったという。同年10月9日に東栄社長宅に西武不動産の次長と西友開発部長と課長の3人が訪れ、ダイエー出店予定地を売るよう要請するが同年10月30日に土地の買取を断念するとの通達が入った。これで何もないと思われたが、翌1975年2月、西友開発部の指定業者であった「青木不動産」が、ビル建設予定地のど真ん中の約120m²の土地と家屋を買収。同年5月31日付けで所有権が「西友畜産」に移り「西友フーズ」の社員寮として使用を開始したのである。
これを受けて商店街側が西友社長の堤清二に土地を穏便に譲るよう要請するも、堤はその要請を断っている。しかし、西武側の抵抗があってもダイエーは土地の94%、借地の38%の売渡承諾書を収得していたため、西武グループの嫌がらせと言われても仕方がなかった。西友フーズの社員寮のために公道を整備し建物のレイアウトの変更・建物のコストの増加等、ダイエーにとって悪い面ばかりであったが地元側は「西友はひどいことをしている」と地元で噂が立つなどダイエー側に対する同情の声が多数あったとされる。また、これらの事情が原因で開業が当初の予定を2年以上も延期を余儀なくされてしまう[5]。
ダイエーはオープン広告の掲載を西武鉄道に求めるも西武側は拒否したが、「チラシ重視主義」のダイエーはオレンジ色のマークと文字がプリントされている「オレンジ・アーミー」を西武鉄道の列車に乗り込ませることで宣伝を図った。
開業前日の1981年11月25日には、東栄ビルの竣工式が行われ、ダイエー側は社長兼CEOの中内㓛、そして意外なことに西武鉄道グループの総帥である堤義明が招かれた。中内は、竣工式での演説で、これまでの西武側の抵抗について恨み節を交えながら「野球は西武 買い物はダイエー」で締めくくったとされる[6]。
そして開業して6年後の1987年には西武セゾングループが、いわくつきの土地を東栄に譲渡[7]、1988年9月から全フロアで増床工事を行い、同年10月にリニューアルオープンした[8]。この工事で店内の死角は解消し、流通史にも後々まで伝えられる、所沢戦争は事実上の終焉を迎えた。
その後[編集]
ダイエーは藤沢店がイトーヨーカ堂と対峙した「藤沢戦争」、琴似店出店を巡るイトーヨーカ堂との土地・価格競争「琴似戦争」、習志野市津田沼でスーパー1位・2位が衝突した「津田沼戦争」等、全国各地でライバル店との抗争に突き進む事になる。
一方、西友は一旦は高級路線に進んだものの2005年にウォルマート子会社化後は再び安売り路線を取っており、店頭には「ダイエー赤羽店・イトーヨーカドー赤羽店・富士ガーデンビーンズ赤羽店様価格真っ向勝負!他店チラシと同額保証」と書かれた旗が店舗周りに多数配置され再び近隣店舗との値下げ競争を再開している。これは従来の特売での値下げ競争とは異なりダイエーも含む他店の西友での価格よりも安いチラシを持ち込むとそのチラシと同額の値段で販売するというシステムである。
後年ダイエーが産業再生機構の支援を受けて経営再建中に乗り出した際、2005年(平成17年)2月に発表した閉鎖リストに所沢店がリストアップされ、報道各社は一斉にとりあげた。撤退を発表した同時期に丸井所沢店も撤退を発表しており、ダイエーが撤退すると駅前に空洞ができてしまうと危惧した所沢市がダイエーに撤退の撤回を陳情したり、地元住民が存続署名活動をするなどの事態となった。地元住民は撤退について賛否両論であったが多くは撤退反対であった。その後、ダイエーは、当店を誘致しビルを保有する東栄との話し合いで賃貸料の値下げで賃貸契約の継続が決まったことや多くの署名活動の成果もあり、ダイエーは所沢店の撤退を撤回、2019年にイオンリテールが所沢店を閉店するまで残った。なお撤退騒動直後、東栄は負債が重なり民事再生法を適用している。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ↑ 堀田真康 『ダイエー 燃える流通革命軍団』 朝日ソノラマ、1981年7月。ISBN 978-4257060871
- ↑ a b 大友達也 (2007年10月). “《研究展望》あの弱かったイオンがダイエーを呑み込んでしまった。何故?”. 社会科学 79号 (同志社大学 人文科学研究所)
- ↑ 日本経済新聞 1969年1月20日 夕刊6面 ダイエー・西友いよいよ激突より
- ↑ 大下英治 中内功のダイエー王国 P162より
- ↑ 三浦悦子『スーパーが危ない ダイエーが危ない(エール出版社)』 p.98 - 100
- ↑ 大下英治 『中内㓛のダイエー王国』 p.206
- ↑ 日経流通新聞 1987年1月22日 『ダイエー所沢店増築 来春メド、最大の店舗に』より
- ↑ 日経流通新聞 1988年8月2日 『ダイエー所沢店増築 西武セゾンが譲渡 いわくつきの土地**大人の**対応』より