豊臣秀頼の墓 (薩摩国)

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豊臣秀頼の墓(とよとみひでよりのはか)とは、現在の鹿児島県鹿児島市谷山4丁目に存在する豊臣秀頼の墓である。

概要[編集]

慶長20年(1615年)5月の大坂夏の陣大坂城徳川家康率いる江戸幕府軍によって落とされた。この際、秀頼は自害して豊臣氏は滅亡したとされているが、秀頼の遺体は確認されていないため、生存説が残されている。鹿児島県に伝わる秀頼の墓もそのひとつで、当時の島津氏は江戸幕府に服従しながらも必ずしも完全に屈服したわけでもなかったので、秀頼が大坂方の武将として活躍した真田幸村真田信繁)の助けを得て薩摩に逃げ延びたとする伝説がある。

秀頼は島津忠恒(家久)に軍船で迎えられて薩摩に入り、谷山に住居を構えたが、40歳余りで死去したという。その屋敷跡に建てられている墓には、高さ2.5メートル、胴回り1.8メートルの石碑が建立されている。