豊後国鶴見原一戦之事
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豊後国鶴見原一戦之事(ぶんごのくにつるみばるいっせんのこと)とは、関ヶ原の戦いにおける石垣原の戦いを中心とした史料である。
概要[編集]
著者・成立年代[編集]
成立年代や著者は不明。ただ、大友義統の病死の記事があるため、義統が死去した慶長10年(1605年)か慶長15年(1610年)以降ということになる。
鶴見原とは石垣原の別名と言われるが、この名前は他の著書では確認できない。また、大友義統のことを「屋形様」「大友殿」と記している(ただし、前後半で敬称が異なっている)ため、大友氏サイドの人間が早い時期に書いたものではないかと思われる。この著は軍記というより覚書である。
内容[編集]
全1巻で、前半と後半で分かれている。前半は『石垣原大友義統与黒田如水取合』と全く同文である。
後半は石垣原の戦いについて詳しく書いている。ただし、石垣原ではなく鶴見原であり、内容も『石垣原大友義統与黒田如水取合』とは全く異なる。敗北した義統は自害しようとしたが、田原親賢の説得で思いとどまり、黒田如水の家臣・黒田方森(母里太兵衛)の下に出頭し降伏。その5年後、義統が江戸の牛込で病死した記事で終了している。