谷流水
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谷 流水(たに はるみ、文久2年(1862年) - 昭和15年(1940年))は、高知県出身の鉄道事業家・銀行家[1]。
生涯[編集]
土佐藩土佐郡泰村(高知市江ノ口)の生まれ[1]。長兄に陸軍大佐・立志社副社長となった谷重喜がいる[1]。流水は5男である。
若い頃は高知の回天社に所属する。11歳のときに土佐を出て県外を奔走し、明治16年(1883年)に板垣退助が岐阜県で遭難した際には立志社総代として岐阜に見舞った。その後、諸国を流れて高知に帰国し、2年ほど生活を送る。だが、土佐では壮士が飯を食えないと述べて東京へ赴き、仙石貢に見出されて明治18年(1885年)から日本鉄道、九州鉄道の建設や甲武鉄道の測量に携わる[1]。
筑豊鉄道では技師を務め、創業直後の間組組長の間猛馬と組んでその建設工事を推進。その後、南海鉄道の技師となる。明治38年(1905年)に病気により高知に帰り、8年間ほど療養しながら釣りをするなど趣味に生きた。病状が好転したので再度上京し、鉄道会社で再び働く。大正5年(1916年)に高知に帰り、大正10年(1921年)に土佐貯蓄銀行創立と共に取締役となる。以後、高知武揚協会、土佐史談会の会長になった[1]。
昭和6年(1931年)に島崎猪十馬と共に旧各社記念会を組織し、自ら会長となり、かつての自由民権運動各社の顕彰に尽力した[1]。
昭和15年(1940年)に死去[1]。78歳没。