論より証拠
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論より証拠(ろんよりしょうこ)とは、主張や議論だけでは不十分で[注釈 1]、証拠を示す必要がある、という意味。論理的な話には納得できる根拠があるから、議論とは異なる。
概要[編集]
あれこれ論じるだけの話は循環論法に陥ることもあり[注釈 2]、無意味に長くなることがある[注釈 3]。具体的な証拠を示す必要がある場合もある。裏付けとなる証拠や実証に基づく話の方が説得力がある。
理論の立て方が下手な日本のような文化圏では、証拠を示せば、それですべて解決するという誤解がある[注釈 4][注釈 5]。
統計[編集]
実証を得るための検証として統計が利用される事がある。しかし、統計による実証は一般人は理解しにくいことがあるので、必ずしも分かりやすいとは限らない。また証拠により裏付けるためには解釈を必要とするので、証拠によって相手が納得するかどうかは、必ずしも保証されない[注釈 6]。
よく出くわす場面[編集]
裁判所[編集]
- 刑事事件においては、裁判官が判決を出す場合、『疑わしきは罰せず』という大前提に基づいて判断されるため、刑罰を被告人に与えるためには、具体的な直接証拠または間接証拠が必要になる[注釈 7]。間接証拠(情況証拠・状況証拠)だけでは不十分であるというのは、まったくの誤解である[1]。
無神論[編集]
- 神が存在するならその証拠を見せろ、と言われる事は多い。論議が得意なパウロは「神の被造物を見れば明らか」[2]という風に述べたが、神の被造物の造りを全然知らない人も多いし、根拠も説得力も不十分なため、確信に至らせるには少々不十分に感じられる。
- しかしパウロは出エジプト記から引用している[3][4][5]。それによれば2000年以上前にエジプトに望んだ出来事にて、ヤハウェは既に「わたしの名が全世界に言いひろめられるため」の証拠を残していた。海底にあるエジプト軍の戦車の残骸は、エジプト軍が海底に進撃し敗北した[6]という事を後代に残す直接証拠として非常に分かりやすい[7]。[注釈 8]
- 逆に神が存在しないなら、その証拠を見せろ、と言ったほうが良いのかもしれない。
ウィキペディア[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
- ↑ 「論より証拠」の論とは、論理的な話という意味ではない。議論という意味である
- ↑ これはミスリードで、議論は循環論法になるわけではない
- ↑ 循環論法と同じ話の繰り返しを混同している。
- ↑ 例)的確な論点を示さない議論は、結局証拠にならない場合もある(長い話が悪いわけではない)。証拠や実証に基づく話の方が説得力がありシンプルで話も早く、分かりやすい
- ↑ シンプルな議論は、単純化しすぎて間違いとなる場合もある
- ↑ 『ときに悪意ある編集者や、自説を何とか通したい編集者は、自分の主張や観点が否定されても自説に固執し、他者の言葉を受け入れることを拒否して、いつまでも論争を続けようとすることがある(jawp:WP:IDIDNTHEARTHAT)』というが、その悪意は証明できないし、一般論ではいえない
- ↑ 目撃証言も直接証拠となる。
- ↑ 戦車が神の名を広めるためのものかが証明されていないし、エジプト軍が敗北したという証拠もないので、直接証拠にも間接証拠にもならない、との見解がある。
- ↑ しかし、ウィキペディアの出典至上主義はある種の誤りを含んでいるし、バイアスがあるから、すべての出典を受け入れているわけではない。
出典[編集]
- ↑ 「情況証拠は弱い証拠」という誤解について弁護士三浦義隆、2017年5月21日
- ↑ “ローマ人への手紙(口語訳)1章20節”. ウィキソース (2012年7月8日). 2019年6月15日確認。
- ↑ “ローマ人への手紙(口語訳)9章17節”. ウィキソース (2012年7月8日). 2019年6月15日確認。
- ↑ “出エジプト記(口語訳)10章1節から2節”. ウィキソース (2018年7月13日). 2019年6月15日確認。
- ↑ “出エジプト記(文語訳)10章1節から2節”. ウィキソース (2018年7月19日). 2019年6月15日確認。
- ↑ “出エジプト記(口語訳)14章21節から28節”. ウィキソース (2018年7月13日). 2019年6月15日確認。
- ↑ “#1 ドキュメンタリー「シナイの砂漠と出エジプトの道筋」日本語字幕”. サンライズミニストリー (2012年7月4日). 2018年11月17日確認。7:30以降