諏訪頼高
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諏訪 頼高(すわ よりたか、享禄元年(1528年) - 天文11年7月21日(1542年8月31日))は、戦国時代の武将。諏訪大社上社の大祝。祖父は諏訪頼満。父は諏訪頼隆。兄は頼俊、頼重。
生涯[編集]
天文11年(1542年)7月に武田晴信が諏訪氏の所領に侵攻して兄の頼重を降伏させた際、頼高は頼重と不仲だった禰宜太夫の矢島満清に身柄を預けられた[1]。諏訪大社上社の大祝は諏訪郡から出てはならぬという不文律があったためとされ、諏訪の家臣団や社家衆を安堵させるための晴信の処置だったという[1]。
しかし身柄を預けられた矢島満清は、頼高が成長した際に謀反人と見なして復讐してくることを恐れて、晴信と高遠頼継に対して頼高を殺害するように持ちかけ、晴信はこれに応じて7月9日に甲府に護送し、7月21日に頼重と共に自害させられたという(『守矢頼真書留』)。享年15[2]。
『守矢頼真書留』によると、諏訪の人々は頼高殺害は晴信の意向ではなく、矢島満清と高遠頼継の野心によるものと考え、諏訪氏を滅ぼした晴信への不満や反感は両人への憎しみで上書きされたとされている。