衛固

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衛 固(えい こ、?-205年)は、中国後漢末期の人。仲堅[1]高幹張晟らの反乱に荷担したが、敗れて処刑された。

生涯[編集]

河東の人で、土地の有力者と思われる。王邑が河東郡太守の時、郡のを務める。

建安10年(205年)、高幹張晟らが反乱を起こすと、范先と共にこれに呼応しようと謀り、朝廷に召還された王邑を引き留める名目で、兵数千人に黄河の渡しを断ち切らせ、後任の杜畿の着任を妨害した。これを反乱と見た曹操夏侯淵を討伐に派遣するが、王邑を慕う民衆や役人が反乱に荷担することを懸念した杜畿は、迂回路を通って単身河東へと入った。

衛固は若いころ杜畿とは悪友仲間で内心馬鹿にしていたので[1]、彼を殺して民衆に威を示そうとする范先を説得し、様子を見ることにした。杜畿はへりくだって衛固らと接し、衛固を都督に任じて功曹の役目も兼務させ、范先には将兵3000人余りを指揮させたので、衛固らは表向き喜んで指揮下に入る振りをした。

衛固が徴兵しようとした時、杜畿が「民衆が動揺して騒ぐといけないので、金で兵を募るべき」と進言したので、これに従った。数十日かけて多数の応募はあったものの、将校達は貪欲に金だけ手にして額に見合う兵は出さなかった。また杜畿は「兵は家の事を心配するものだから、交代で休暇を与えれば心を掴むことができる」と説いたので、これにも従った。その結果、金目当ての将兵は家に帰り、心ある将兵は杜畿の味方となり内通したので、軍はまとまりを欠き、高幹らが河東に侵入した時もすぐ呼応することができなかった。

その隙に脱出して張辟に依った杜畿の元に諸県の兵が合流し、4000人超の軍勢となった。衛固らは高幹・張晟とともに杜畿を攻撃したが、落とすことができず、やがて到着した鍾繇らの軍に鎮圧され、処刑された。

逸話[編集]

  • 若い頃、杜畿とは悪友仲間だった。博打で勝負をした時、杜畿が「自分は今に河東の太守になる」とうそぶいたので、衣の裾を絡げて馬鹿呼ばわりしたという[1]

脚注[編集]

  1. a b c 『魏略』

参考文献[編集]