藝文類聚
藝文類聚(げいもんるいじゅう)は中国の類書の中で早い時期の成立に属する「類書」であり、唐代類書の代表作といわれる。全100巻。現存最古の類書である。
「芸文類聚」と書かれることもある。
概要[編集]
唐が建国されてまもない頃の622年(武徳5年)に皇帝・高祖李淵より類書編纂の詔勅が発せれられた。624年(武徳7年)になり欧陽詢らが完成を奏上した。完本が現存している最古の類書である。散早した唐初以前の文献を多数収録する本書は、書籍としての価値が高い[1]。『旧唐書』趙弘智伝によると、勅を奉じて編修の任に当たった人は十数人いたという。
五年、秘書丞に遷り、侍中陳叔達等と、詔を受けて藝文類聚を撰す。(『旧唐書』巻七十三 令狐徳芬伝)武徳五年
第一巻「天部上」に始まり、第百巻「災異部下」まで四十八部門に分けられ、それを七百二十七目に分ける。まず事実を「経」「子」「史」の文献から引用し、次いで詩文から収録する。引用古典籍は九百種以上あり、引用詩文集は五千種以上ある。
日本には早い段階で伝わっていたことは、寛平年間(889年-897年)に藤原佐世が編集した『日本国見在書目録』雑家の部に「藝文類聚百巻」の記載があることから、証明できる。
日本書紀の古い時代の記事は、中国古代の書物、特に「藝文類聚」を引用していると言われる。
写本[編集]
『藝文類聚』は、南宋紹興年間の刊本が現存最古のものとされている。明の1515年(正徳10年)に銅活字本が出版された。1527年(嘉靖6年)の胡纉宗刻本がそれに次ぐ。
構成[編集]
- 第一卷 天部上
- 第二卷 天部下
- 第三卷 歲時部上
- 第四卷 歲時部中
- 第五卷 歲時部下
- 第六卷 地部 州部 郡部
- 第七卷 山部上
- 第八卷 山部下 水部上
- 第九卷 水部下
- 第十卷 符命部
- 第十一卷 帝王部一
- 第十二卷 帝王部二
- 第十三卷 帝王部三
- 第十四卷 帝王部四
- 第十五卷 后妃部
- 第十六卷 儲宮部
- 第十七卷 人部一
- 第十八卷 人部二
- 第十九卷 人部三
- 第二十卷 人部四
- 第二十一卷 人部五
- 第二十二卷 人部六
- 第二十三卷 人部七
- 第二十四卷 人部八
- 第二十五卷 人部九
- 第二十六卷 人部十
- 第二十七卷 人部十一
- 第二十八卷 人部十二
- 第二十九卷 人部十三
- 第三十卷 人部十四
- 第三十一卷 人部十五
- 第三十二卷 人部十六
- 第三十三卷 人部十七
- 第三十四卷 人部十八
- 第三十五卷 人部十九
- 第三十六卷 人部二十
- 第三十七卷 人部二十一
- 第三十八卷 禮部上
- 第三十九卷 禮部中
- 第四十卷 禮部下
- 第四十一卷 樂部一
- 第四十二卷 樂部二
- 第四十三卷 樂部三
- 第四十四卷 樂部四
- 第四十五卷 職官部一
- 第四十六卷 職官部二
- 第四十七卷 職官部三
- 第四十八卷 職官部四
- 第四十九卷 職官部五
- 第五十卷 職官部六
- 第五十一卷 封爵部
- 第五十二卷 治政部上
- 第五十三卷 治政部下
- 第五十四卷 刑法部
- 第五十五卷 雜文部一
- 第五十六卷 雜文部二
- 第五十七卷 雜文部三
- 第五十八卷 雜文部四
- 第五十九卷 武部
- 第六十卷 軍器部
- 第六十一卷 居處部一
- 第六十二卷 居處部二
- 第六十三卷 居處部三
- 第六十四卷 居處部四
- 第六十五卷 產業部上
- 第六十六卷 產業部下
- 第六十七卷 衣冠部
- 第六十八卷 儀飾部
- 第六十九卷 服飾部上
- 第七十卷 服飾部下
- 第七十一卷 舟車部
- 第七十二卷 食物部
- 第七十三卷 雜器物部
- 第七十四卷 巧藝部
- 第七十五卷 方術部
- 第七十六卷 內典部上
- 第七十七卷 內典部下
- 第七十八卷 靈異部上
- 第七十九卷 靈異部下
- 第八十卷 火部
- 第八十一卷 藥香草部上
- 第八十二卷 草部下
- 第八十三卷 寶玉部上
- 第八十四卷 寶玉部下
- 第八十五卷 百穀部 布帛部
- 第八十六卷 果部上
- 第八十七卷 果部下
- 第八十八卷 木部上
- 第八十九卷 木部下
- 第九十卷 鳥部上
- 第九十一卷 鳥部中
- 第九十二卷 鳥部下
- 第九十三卷 獸部上
- 第九十四卷 獸部中
- 第九十五卷 獸部下
- 第九十六卷 鱗介部上
- 第九十七卷 鱗介部下 蟲豸部
- 第九十八卷 祥瑞部上
- 第九十九卷 祥瑞部下
- 第一百卷 災異部
序文[編集]
序文の記載はあるが、後年の追記であろうとされる。
敍に曰く「夫れ九流百氏は說を為すこと同じからず。延閣・石渠は架藏繁積す。周流して源を極むるとも、頗ぶる尋究難く、條を披き、貫を索むるとも、日用弘く多し。卒に其の指華を採らんと欲す。其の旨要を採らんと欲す。事は海に遊ぶと同じ、義は天に観るに等し。皇帝は命代期に膺り、茲の寶運に撫す。澆風を季俗に移し、淳化を區中に反す(かえす)。亂に戡ちて(かちて)人を靖んじ、思いて服せざるは無し。武を偃め(やめ)文を修め、庠序を興開し、家をして隋珠に富ましめ、荊玉を抱かんと欲す。以為へらく、『前輩の綴集は各々其の意をくみ、流別・文選は專ら其文を取り、皇覽・徧略は其事を書す。文義は既に殊なれば、尋檢は一なり難し。爰に詔りて其の事かつ文を撰し、其の浮雜を棄て、其の冗長を刪てる金箱玉印、比類して相い從え、號して『藝文類聚』という。凡て一百卷。其の事の文より出ずる者あれば、便ち之を破りて事と為さざる。故に事は其の前に置き、文は後に列す。夫の覽る者は功を得やすく、作る者うをしてその用に資する。以って今古を折衷し、墳典を憲章すべし』としか云う。太子率更令弘文館學士・渤海男歐陽詢序す。
注[編集]
- ↑ 大渕貴之(2010)「『藝文類聚』編纂考」日本中国学会報,Vol62,pp. 5-7