久米正雄
久米 正雄(くめ まさお、1891年-1952年)は、日本の作家。長野県の出身。
人物[編集]
長野県上田町に、教員の子として生まれる。父が校長だった時、学校が火事になり、天皇の写真が焼けた(いわゆる「御真影」ではない)ため父は責任をとって自決し、正雄は母とともに母の出身地の福島県郡山に移住した。母の父は開拓者の中条政恒の友人で、その子が建築家の中条精一郎、その娘が作家宮本百合子となった中条ユリで、正雄とユリは幼馴染であった。
正雄は第一高等学校へ入り、東北地方を徒歩で走破する選手の補欠となり、途中から代理として東京入りを果たすなどスポーツマンで、競艇部でも名選手だった。さらに俳句でも久米三汀の号で活躍した。東京帝国大学文学部英文科へ入ると、同期の芥川龍之介の親友となり、ともに第三次『新思潮』に参加して戯曲「牛乳屋の兄弟」で劇作家として名をあげた。また大正5年(1916)には芥川とともに夏目漱石を訪ね、その最後の弟子となり、菊池寛、松岡譲、成瀬正一とともに第四次『新思潮』を興し、「競漕」「受験生の手記」など、『学生時代』に収められる短編で名をあげる。
だが同年末、漱石が49歳で死ぬと、久米は精力的に葬儀を手伝ったが、漱石の長女筆子に恋してしまい、漱石の妻鏡子から、仮の婚約者として扱われた。だが筆子は松岡譲のほうが好きで、結局久米は失恋してしまい、筆子は松岡と結婚する。久米はのちにこの事件を『破船』に描いたため「破船事件」と呼ばれ、松岡はのちに「憂鬱な愛人」を書いて自身の立場を明らかにした。卒業後「時事新報」に勤めていた菊池は、悲嘆する久米のために、小説「蛍草」を同紙に連載させ、これがヒットしたため久米は再起し、以後数多くの通俗長編小説を書くことになる。
『真珠夫人』をヒットさせ、雑誌『文藝春秋』を興した菊池とともに、通俗小説の大家として『天と地と』『月よりの死者』『沈丁花』『白蘭の歌』などを書いた。昭和2年に芥川が自殺した時は、久米宛の遺書が残されていた。その一方、「「私」小説と心境小説」などの評論で、ドストエフスキーもトルストイも高級な通俗小説で、純文学の精髄は私小説だと論じたが、自分ではその後私小説を完成させることはなかった。戦時中は日本文学報国会の事務局長を務め、その後は鎌倉に住む川端康成らの文士とともに「鎌倉文庫」を発足させ、戦後は出版社として雑誌『人間』などを創刊、社長として活躍した。戦後、松岡とも和解するが、1948年に菊池が死に、純文学作家としてはさしたる業績を残せず、60歳で死去した。戦後の作品として、漱石に入門した時のことを描いた『風と月と』がある。