米英戦争

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米英戦争 (べいえいせんそう)とは、1812年6月18日アメリカ合衆国グレートブリテン及びアイルランド連合王国宣戦布告し、1814年12月24日に講和したアメリカ合衆国グレートブリテン及びアイルランド連合王国の間に起きた戦争である。英米戦争、第二次アメリカ独立戦争ともいう。

概要[編集]

グレートブリテン及びアイルランド連合王国アメリカ合衆国に嫌がらせをしていると思い込んだアメリカ合衆国の議員の主張を抑えきれなかった時のアメリカ合衆国第四代大統領ジェームス・マディソンがイギリスに宣戦布告したのが発端である。第二次アメリカ独立戦争ともいう。この戦争でアメリカ合衆国国歌、星条旗 (国歌)が誕生した。

戦争に至った経緯[編集]

ナポレオン戦争によって大混乱となったヨーロッパに対して中立の立場にあったアメリカ合衆国は漁夫の利によって貿易で大きな利益をあげていた。これに対して1806年5月、イギリスはフランス勢力下の大陸沿岸部の封鎖を画策すると、同年11月にはナポレオン大陸封鎖令を発令し、イギリスと交易を行う船舶をすべて拿捕すると布告した。この措置によってアメリカ合衆国の経済は疲弊し、これに対抗する形で1807年12月、アメリカ合衆国の海外貿易を禁止する出国禁止法を成立させた。事実上の鎖国である。しかしこれによってアメリカ合衆国の経済はさらに打撃を与えてしまった。

このようなときにイギリス海軍の軍艦がアメリカ海軍の軍艦からアメリカ人水兵を強制的に連行される事態が起きた[1]。さらに、アメリカ合衆国の人々がインディアンの土地を収奪したため、インディアンがこれに抵抗し、この抵抗にはイギリス軍が扇動していると信じる議員が大勢いたため、選挙地盤にこういった議員がいたアメリカ合衆国第四代大統領ジェームス・マディソン1812年6月18日、イギリスに対して宣戦布告した。

開戦後[編集]

アメリカ合衆国は当初、カナダのイギリス軍を簡単に撃破できると楽観視していた。カナダ在住のフランス系移民が反英感情から、自分たちに有利な戦局になるだろうと思っており、また、ナポレオン戦争の影響でイギリス軍将兵が本国に留まっていたからである。これに乗じて北アメリカ大陸からイギリス勢力を駆逐しようとしていた。しかし、カトリックであるフランス系移民はプロテスタントであるアメリカ合衆国と、キリスト教と王政を排撃したフランス本国を良く思っていなかった。さらに、イギリス軍は将兵の不足を、アメリカ合衆国と対立するインディアンに求めた。アメリカ合衆国の議員の妄想が現実になったのである。8月13日デトロイト南方のフォート・モールデンに到着したイギリス軍のアイザック・ブロック少将は約1300名の部隊を引き連れてデトロイトに進撃した。そしてアメリカ軍のアッパー・カナダへの侵攻部隊およそ2000名を率いるウィリアム・ハル少将に降伏勧告を行った。当初、ウィリアムはこの降伏勧告を突っぱねたが、8月16日、イギリス軍の攻撃が開始され、インディアンの雄叫びに恐れをなして戦意を失い、その日のうちに降伏勧告を受け入れた。ブロックのもとにはテムカセ率いるインディアン諸部族連合軍がいたのである。さらにナポレオン戦争が収束に向かい、ヨーロッパの戦線が落ち着きを取り戻すとイギリス本土からナポレオン戦争を戦ったイギリス軍の精鋭部隊がカナダに到着し、各地でアメリカ軍を破った。そしてイギリス軍はアメリカ合衆国に侵入した。狙いはこの国の首都ワシントンであった。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

荒川佳夫「米英戦争」〈歴史群像No.83〉学習研究社2007年6月1日発行。

脚注[編集]

  1. 当時のイギリス海軍の水兵徴募は、職場や家庭、商船から強制的に連れ出してきた。

    詳細は「帆走軍艦」を参照