真里谷信隆
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武田信隆/真里谷信隆(たけだのぶたか/まりやつのぶたか、不明- 天文20年8月2日(1551年9月2日))は真里谷氏の当主。上総の戦国大名。
生涯[編集]
- 真里谷恕鑑(信清)の子供として生まれる。
- 1534年に、父恕鑑が死去。家督は兄の、全鑑が継いだ。
- しかし、家督を継いですぐに、全鑑が死去。信隆が家督を継いだが、それを不服とする、嫡流の信応と家督争いに発展した。
- 信隆は里見義堯を伝い、北条氏綱と結ぶ。弟の信応派には、小弓公方の足利義明が付き、敵対する。
- 1537年頃に北条と結ぶ信隆に不信感を募らせた、義明は、兵を挙げ、信隆を北条領へ追放し、信応に家督を継がせた。
- 1538年に、第一次国府台合戦で義明や信応が大敗し、信応は里見義尭を頼り、安房に落ち延びた。信隆は、上総に戻り椎津城を居城とした。
- その後、弟信応、里見義堯と何度も、上総で戦う事となる。
- 天文20年8月2日(1551年9月2日))に死去。その後真里谷氏は里見氏に滅ぼされる事となる