濃州関ヶ原軍記

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濃州関ヶ原軍記(のうしゅうせきがはらぐんき)とは、関ヶ原の戦いに関する史料である。

概要[編集]

著者・成立年代[編集]

嘉永4年(1851年)8月4日に書写した、と奥書にある。つまり、江戸時代でも末期の成立ということになる。著者は間塚要治良とあるが、どのような人物化は不明。ただ、書写したのは18歳の時だという。

別称は『濃州関原合戦聞書』(のうしゅうせきがはらかっせんききがき)、『関原合戦聞書』(せきがはらかっせんききがき)。

内容[編集]

全1巻。会津征伐から始まるが、その際の86名の武者揃えから語り始めている。関ヶ原本戦前の美濃国における戦い(岐阜城の戦い)などをまずは重点的に書いている。ただ、宇喜多秀家島津義弘らまでが死んだことになっている。

また、石田三成は奸臣として描かれ、その最期については鎌倉時代梶原景時になぞらえて、2章にもわたって三成批判を繰り広げている。その理由として、豊臣政権時代に権勢を振るって驕り高ぶったり、多くの武将を讒言で陥れたこと、そして七将事件徳川家康に救われたのに、その恩を忘れて今度の謀反を企てたことなどが書かれている。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]