楊 豊(よう ほう、生没年不詳)は、中国の後漢末期から三国時代にかけての魏の武将[1]。同姓同名で同じように魏に仕えた楊豊とは別人とされる。旧名を阿若(あじゃく)[1]。字は伯陽(はくよう)[1]。
涼州酒泉郡の出身[1]。元々は遊侠の徒であったが、酒泉郡の太守であった徐揖が在地豪族の黄昂の一族の者を殺害し、このため黄昂が徐揖を報復で殺害する際に協力した。しかし直後に黄昂と対立に転じ、単独で手勢を集めて立ち向かって黄昂を殺害した[1]。後に文帝にその義勇を認められ、黄初年間に駙馬都尉に任命された[1]。