本居豊穎
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本居 豊穎(もとおり とよかい、天保5年4月28日(1834年6月5日) - 大正2年(1913年)2月15日[1])は、明治期に活躍した国学者。紀州藩本居家の4世当主。幼名稲楠、通称中衛、和号秋屋。
経歴[編集]
父は本居内遠、母は藤子。紀州和歌山に生まれる。弟に歌人・音楽家の荒巻利蔭、陸軍大佐の徳田正稔がいる。本居宣長は義理の曾祖父にあたる[2]。
安政2年(1858年)に父が重病の報告を受けて出府し、父の死去により一旦帰郷してその後再び江戸に出て父の跡を継いだ[2]。平野神社宮司、神田神社宮司などを経て、明治25年(1892年)に東京女子高等師範学校教授、東宮侍講、御歌所寄人などを歴任し、明治39年(1906年)に帝国学士院会員となり、明治42年(1909年)に文学博士となった[2]。
かねてから脳溢血で療養していたため、医師の治療を受けるなどして一時は持ち直していたが、大正2年(1913年)2月に入って再び悪化し、2月14日には昏睡状態に陥ったため、嗣子(実孫)で後の音楽家の本居長世夫妻や弟の徳田正稔などが病床に駆けつけて看護につくすも、2月15日午後2時に眠るように死去したという[2]。享年80[2]。