斎藤恒三

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斎藤 恒三(さいとう つねぞう、安政5年9月11日1858年10月17日) - 昭和12年(1937年2月5日)は、長門国山口県)出身の技術者・企業家である。東洋紡の社長、紡績技術者。大日本紡績連合会委員長、名古屋商工会議所特別議員などを歴任した。

経歴[編集]

  • 1858年10月17日(安政5年9月11日)、長門国(山口県)萩で藤井家の三男として生まれる。
  • 1872年(明治5年)、工部大学校機械科卒業。
  • 大坂造幣局に勤務する。
  • 英国人技師ニードルとともに、大阪造幣局勤務時代の技師・工学士の斎藤恒三が大坂紡績の紡績機の据え付けに関する指導監督を行う。
  • 1886年(明治19年)10月三重紡績に技術長として入社。実質的な経営者であった伊藤伝七渋沢栄一より優秀な技術者が必要であると教えられ、斎藤恒三を引き抜いた。その後、斎藤は同年末から四日市工場建設のために、イギリスでの研修のため渡航し、アメリカの工場も視察する[1]
  • 1888年明治21年)10月、斎藤恒三はイギリス研修より帰朝する[2]
  • 1906年(明治39年)、名古屋電力設立時の発起人に加わる。
  • 1914年大正3年)、大阪紡績との合併により成立した東洋紡の専務となる。
  • 1920年(大正9年)、東洋紡の社長に就任、大正15年(1926年)まで。
  • 1937年(昭和12年)2月5日、死去。68歳没。

最新機械の導入[編集]

三重紡績は明治15年に設立されたが、当初は経営成績か厳しい状態であったが、明治19年(1886)に渋沢の援助をうけ株式会社として再出発し、明治21年には四日市町に新工場を建設した。渋沢栄一大阪紡績を模範とするようアドバイスした。英国での研修を終えた斎藤恒三の決断により、三重紡績は当時の最新式リング機10台・3440錘を英国のプラットから輸入した。これにより生産体制の確立ができた。三重紡績の成立、発展には斎藤恒三の功績も大きかった。三重紡績は明治末には国内有数の規模に成長した[3]

注・参考文献[編集]

  1. 谷敷正光(2002)『明治後期綿糸紡績業における企業内職工養成制度』駒沢大学経済学論集、Vol.33(3/4),pp. 145-197
  2. 阿部武司、村上義幸、井上真里子(2006)『斉藤恒三宛伊藤伝七書翰』経済史研究Vol10(0)、pp.181-198
  3. 絹川太一編(1936)『伊藤伝七翁』伊藤伝七翁伝記編纂会