徐幹

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徐 幹(じょ かん、170年 - 217年)は、中国後漢末期の政治家文人偉長(いちょう)[1]建安七子の1人に数えられる[1]

生涯[編集]

青州北海郡劇県の出身[1]。清廉かつ博識で、筆を取ればたちまち典雅な文章を書き上げたという[1]曹操に仕えて司空軍謀祭酒掾属・五官将文学となる[1]。『中論』20余篇を記したという[1]。217年に華北で流行した疫病にかかって死去した[1]。享年48。

先賢行状』では無欲恬淡で官位や俸禄を軽んじて栄誉には興味を示さなかったという。また曹丕は「文章、内容とも典雅で後世に伝えるに足るもので不朽の人物」と評価している[1]

三国志演義』には登場しない[1]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i 小出『三国志武将事典』P215

参考文献[編集]