寺田 光吉(てらだ みつよし、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊臣氏の家臣[1]。
播磨の出身で前半生は不明。時期不明で豊臣秀長に仕えた。秀長に従って九州征伐で大きな軍功を挙げたといわれる。秀長の死後、その養子である秀保に仕えた。秀保が早世すると、秀吉に仕えた。所領は大和国内で1万5000石という大名であった[1]。
秀吉没後の関ヶ原の戦いでは西軍に属して伏見城の戦いに参加し、戦後に改易となった。その後の行方は不明である[1]。