宮瀬富之
Tomiyuki Miyase(宮瀬 富之/みやせ とみゆき、1941年(昭和16年)10月4日 - )は、日本の彫刻家。
本名は宮瀬富夫。 金沢美術工芸大学彫刻専攻を卒業。 公益社団法人日展理事 元公益社団法人日本彫刻会理事
(The English and French versions are after the Japanese version)
来歴[編集]
- 1942年(昭和16年)10月4日に生まれる。日本芸術院会員松田尚之に師事。
- 1967年(昭和42年)「ポーズする女」が 第10回日展に初入選。
- 1973年(昭和48年)「風のよそおい」が第5回日展の特選を受賞。「水たまり」が第2回日彫展の日彫賞を受賞。
- 1974年(昭和49年)「風の中を」が第6回日展の特選を受賞。2年連続で日展特選を受賞する快挙をなし遂げる。
- 1978年(昭和53年)第8回日彫展審査員(後4回)
- 1979年(昭和54年)第11回改組日展審査員(後6回)
- 1984年(昭和59年)大阪成蹊短期大学教授に就任。
- 1985年(昭和60年)「早く来ないかなぁ」が第15回日彫展の北村西望賞を受賞。
- 1986年(昭和61年)社団法人日本彫刻会運営委員。
- 1992年(平成4年) 社団法人日展評議員。
- 1999年(平成11年)金沢美術工芸大学教授美術工芸学部彫刻専攻教授・修士・博士課程教授に就任。
- 2002年(平成14年)幻の展覧会と呼ばれる甲子園の感動14年~彫刻にみる球児たちの汗と涙~ を開催。
- 2005年(平成17年~平成23年)大阪成蹊短期大学学長、大阪成蹊大学学長理事
- 2005年(平成17年)「はんなりと石庭に」が第37回日展の内閣総理大臣賞を受賞。
- 2006年(平成18年) 第19回京都美術文化賞を受賞。
2009年(平成20年)第40回日展に出品した「源氏物語絵巻に想う」が 卓越した芸術作品を作成した者または芸術の進歩に貢献した者に対して授与される。 我が国最高の賞、第65回日本芸術院賞を授賞(天皇皇后両陛下ご臨席)。
- 2010年(平成21年)公益社団法人日展理事。
- 2011年(平成22年)公益社団法人日本彫刻会理事。
- 2014年(平成26年) 改組第1回日展「想いは遥か」 で日本を代表する映画監督山田洋次氏をモデルに制作。
- 2016年(平成28年)改組第3回日展「気魂の球人HIROKI・KURODA」で日本を代表する
プロ野球選手黒田博樹氏(広島東洋カープ・ニューヨークヤンキース)をモデルに制作。
- 2018年(平成30年)改組第5回日展「 101%のプライド 」で日本を代表する
プロボクサー村田諒太氏(WBA世界ミドル級王者)をモデルに制作。
- 2018年(平成30年)公益社団法人日展理事(再任) 。
甲子園の感動14年~彫刻にみる球児たちの汗と涙~[編集]
現在でも”幻”と呼ばれる理由[編集]
1988年から14年間、毎年1作品ずつ甲子園球児達をテーマに作品を制作。
2002年(平成14年)3月25日~4月4日にかけて、その作品を一同に集めた展覧会がNHK大阪放送局内アトリウムにて開催される。
11日間の開催期間にて、来場者数はおよそ6万6千人。
展覧会の会場としてNHK大阪放送局内が利用されたのは、これが最初で最後。それ以降もNHK大阪放送局内で展覧会が行われた事は一度もない。
甲子園球児たちの魅力[編集]
この展覧会は「敗者は感情豊かで、敗れの美学、魅力がある」と敗者に焦点をあてた作品となっているが、最後の「 勝利の日・鴬の思い出」 だけが、勝利の作品となっている。厳しい練習に耐えた高校球児達が熾烈な地区予選をくぐりぬけて来なかった学校は一つしてない。
しかし、それでもなお試合終了の瞬間には、勝者と敗者が存在する。優勝した一校の他は、みな敗北の涙を知る。宮瀬富之氏は敗北しながら微笑んだある球児の姿に、彼らを動かす力とは「夢を現実にする」希望の力ではないだろうかと感じ作品を制作し始める。
発表された作品のタイトル一覧[編集]
- 1988年(昭和63年) - 友に負けて帰った日
- 1989年(平成元年) - いま青春の輝き
- 1990年(平成2年) - 三振、夕陽の中の青春
- 1991年(平成3年) - 夕陽の沈むサヨナラの一球
- 1992年(平成4年) - 青春の謳歌をつづった君に栄光あれ
- 1993年(平成5年) - けど・よかったやないか
- 1994年(平成6年) - 甲子園からのメッセージ
- 1995年(平成7年) - 泪の準決勝・ふる里を想いて
- 1996年(平成8年) - 栄光は君に輝け
- 1997年(平成9年) - 光と影と
- 1998年(平成10年) - フレーフレー
- 1999年(平成11年) - 歓喜、そして燃え尽きた夏
- 2000年(平成12年) - 浜風の季憶の中で
- 2001年(平成13年) - 勝利の日・鴬の思い出
よく、スポーツの大会で勝利よりも、敗者の姿、「グッドルーザー」の方が感動を呼び、私たちの心を捉えることがある。
本当のスポーツマンは、失敗を冷静に見つめて、自己成長しているのではないか。
また、昨今、AIの発展はめざましいものがある。 いずれAIに仕事が奪われてしまうと言われているが、ただ、AIになくて、人間にあるもの。 それは、ムダなことを繰り返し繰り返し、失敗しても立ち上がることができ、好機に変えることができるのは人間だけである。
本当の希望とは、人が輝くと言うのは、もしかして失敗のムダからきているのではないか。
唯一無二を生み出す「Miyasetouch」[編集]
具象、半具象、抽象作品の醸し出される魅力と技法と色が特徴。
宮瀬富之氏しか出せない作風をファンの間では「Miyasetouch」呼ばれていて、 作品は主に「具象彫刻の真髄を極めた高校野球シリーズ」・「京都の雅を表現した心象シリーズ」・「半抽象の奥ゆかしさを表現したモニュメントシリーズ」・「神聖な雰囲気を感じさせる胸像シリーズ」に大別される。
そして、Miyasetouchの渾身の一作がグーグルマップのポイントにもなっている、京都の「巨大な輝き」の像である。
京都の「巨大な輝き」の像[編集]
もともと、「巨大な輝き」が制作された想いには、明治時代の京都市三大事業の琵琶湖疎水の歴史があげられる。
琵琶湖の水を京都に通すことで、東京遷都により、かっての都、京都が衰退していく中、当時の北垣知事は、琵琶湖から京都に水路を築き、水力発電を起こして工業の向上を図ると言う捲土重来のプランを実行する。
トンネル工事は死者が出るほどの難事業であったが、明治23年(1890)に完成。 翌年には水力発電所も完成して、明治28年には我が国初の路面電車が走るなど、古都は息を吹き返し、活力を取り戻した。
この巨大な輝きのモニュメント像のプレートには、水門を開ける男と開かれた水門からキラキラあふれ出る命の水。 幾数千万の力の結集が疎水隧道(トンネル)を造らせた。
それは巨大なエネルギー このパワーを人物に託し、琵琶湖からの永遠の恵みを感謝する気持ちを形とす。 と記載されている。 当時の先人たちの知恵と苦労と多くの犠牲があったからこそ、今の私たちに恩恵があるのではないでしょうか。
制作物[編集]
作品名 | 製作年 | 備考 |
---|---|---|
皇后盃全国都道府県対抗女子駅伝競走大会モニュメント「歓」 | 1989年(平成元年) | 西京極総合運動公園正面玄関前 |
「青春の軌跡」 | 1989年(平成元年) | 京都市西京極総合運動公園正面玄関前 |
「麦藁帽子と少女」 | 1993年(平成5年) | 京都府立植物園中庭 |
「源氏物語絵巻に想う」 | 2009年(平成20年) | 平成20年度(第65回)日本芸術院賞 / 日本芸術院蔵 |
「山田洋次監督」胸像 | 2014年(平成26年) | 山田洋次ミュージアム入り口 |
「巨大な輝き」 | 不明 | 琵琶湖疎水記念館前 |
外部リンク[編集]
- 宮瀬富之 - @ART