大友宗麟の墓
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大友宗麟の墓(おおともそうりんのはか)とは、大分県津久見市に存在する大友宗麟の墓である。
概要[編集]
津久見市街の南およそ2キロ、バス道から入ったところの山を背にした、杉の木の下にある墓である。天正15年(1587年)に大友宗麟は58歳で死去した。津久見に隠居所を築いていたことから、その墓は津久見市に築かれた。その葬儀はキリシタン大名ゆえにキリスト教式で営まれたが、豊臣秀吉が伴天連追放令を出したことから嫡子の大友義統が仏教式の墓に改めた。宗麟の死から6年後、大友家は大名としては滅亡し、それにより宗麟の墓も荒れ放題となった。しかし、200年余りたった寛政年間(1789年から1801年)に、大友氏の家臣だった末裔の者が墓を再建した。
墓銘には「瑞峯院殿前羽林次将兼左金吾休庵宗麟大居士」で、2行に分けて刻まされている。