土井利器
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土井 利器(どい としかた、天明3年6月4日(1783年7月3日) - 文政元年5月17日(1818年6月20日))は、越前国大野藩土井家4万石の第6代藩主。利房系土井家6代。
略歴[編集]
父は下総国関宿藩主・久世広明とも、久世広誉とも言われる。母は久世氏の家女だった道樹院。江戸城西の丸下の関宿藩邸で生まれた。
当初は11男ということもあって家督相続の目もなく、奥原秀五郎と名乗っていた。天明5年(1785年)8月に久世姓に復姓し、寛政5年(1793年)に雄之丞と改名する。文化6年(1809年)8月、越前国大野藩の第5代藩主・土井利義の養子となり、諱を利器と改名する。12月に従五位下甲斐守に叙任した。
文化7年(1810年)3月10日、利義の隠居により家督を相続して第6代藩主となる。文化8年(1811年)7月に領国に初入部する。文化9年(1812年)8月に大坂加番を勤めた。
当時の大野藩は既に藩財政が火の車であり、文化14年(1817年)には倹約令を出している。しかし家臣に対する扶持米も滞りがちとなる。同年、利義の娘・トシを正室に迎えるが子はなく、文政元年(1818年)5月に病に倒れた。利器には側室に家女のマスがいたがこの間にも子は無く、やむなく養父・利義が隠居した後に生まれていた長男・土井利忠を自らの養子に迎えて後継者に指名。間もなく利器は失意のうちに大野城の2の丸において死去した。36歳没。
法名は道樹院殿前甲州刺史祥誉感徴顕瑞居士。墓所は東京都府中市紅葉丘の誓願寺。福井県大野市錦町の善導寺。
系譜[編集]
子女は1女