周魴
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周 魴(しゅう ほう、生没年不詳)は、中国の三国時代の呉の武将・政治家。字は子魚(しぎょ)[1]。父は周賓。子に周処。孫に周玘・周札。曽孫に周勰(周玘の子)。
生涯[編集]
揚州呉郡陽羨(現在の江蘇省宜興市)の出身[1]。若い頃から学問を好み、孝廉に推挙されて寧国県長に任命され、後に懐安を治めるようになる。銭唐や鄱陽の賊を討伐して昭義校尉に昇進する[1]。
228年、鄱陽太守の地位を利用して魏の曹休に偽降する事で魏軍を呉領深くに誘い込み、石亭の戦いにおける大勝に貢献した[1]。これにより裨将軍に昇進した。以後は郡を統治しながら13年で死去したと伝わる[1]。
『三国志演義』では第96回で史実通り曹休に対して偽降している[1]。曹休やその部下らが疑うと、自分の髻を切って真実の証として騙すなどしている[1]。