北村透谷

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北村 透谷(きたむら とうこく、明治元年11月16日(1868年12月29日-1894年5月16日)は、日本の詩人・評論家。神奈川県の出身。

人物[編集]

相模国小田原生まれ。本名・門太郎。少年時代から自由民権運動に参加し、遊郭に登楼したりするが、運動家の石阪昌孝の娘で二歳上のミナと知り合ってキリスト教を教えられ、ミナと結婚するに及んで、徳川時代的な性のあり方を批判するようになる。また明治女学校を作った巌本善治や、同志社に学んだ徳富蘇峰からも影響を受け、『女学雑誌』に評論を書くようになる。また島崎藤村とも知り合い、大きな影響を与えている。「処女の純潔を論ず」では曲亭馬琴の伏姫を論じ、「粋を論じて『伽羅枕』に及ぶ」では尾崎紅葉の作品や、徳川期の洒落本「傾城買二筋道」を批判して、近代的な恋愛の崇高さを唱える。

アメリカの思想家エマソンの影響を受け、長詩「楚囚之詩」などを書いた。

だが実際の結婚生活では貧苦にあえぎ、妻との関係も悪化、「厭世詩家と女性」では、「恋愛は人生の秘鑰なり」としながら、詩人は俗世と対立する存在だが、結婚すると妻は俗世の代弁者となると悲観的な結婚観を述べ、26歳で自殺した。島崎藤村がのち『春』で透谷の思想を紹介したことで世間に知られるようになった。