劉濞

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劉 濞(りゅう び、紀元前215年 - 紀元前154年)は、中国前漢皇族呉楚七国の乱の首謀者で乱を主導して前漢と全面的に敵対するが、指揮のまずさなどから大敗を喫して敗走し、味方の裏切りにより最後は殺された。

生涯[編集]

劉邦の時代[編集]

父は前漢の初代皇帝である劉邦(高祖)の次兄である劉喜[1]。劉喜は軟弱者だったが、劉濞は気力旺盛で高祖から気に入られたという[1]紀元前196年淮南王の英布が高祖に対して反乱を起こした際、沛侯の地位にあった劉濞は高祖に従って従軍し鎮圧に貢献した[1]。この武功により、劉濞は高祖から呉王に封じられ、さらに東陽郡呉郡などの3郡53城の統治を任せることにした[1]。ただしこの時、高祖は劉濞にこう発言している。「お前の人相を見て改めて悔やんだ。お前には謀反の相がある。だが最早王に任命した後なので今更取り消すこともできない。50年のうちに東南のほうで乱を起こす者があると占う者がいるが、あるいはお前のことかもしれない。しかし天下は同姓にして一家たるなり、すなわち天下の諸侯は全て劉氏と同姓の者であり、我らは同じ一家なのだから、身を慎んで謀反など起こしてはならないぞ」と述べて劉濞の背を叩いた[1]。これに対して劉濞は、地に頭をつけて高祖に対して拝礼し、「決していたしません」と答えた[1]

劉濞の統治[編集]

紀元前195年に高祖が崩御し、その皇后であった呂雉の息子の恵帝(劉盈)が新帝に即位し、呂氏一族による専横が始まった。この中で劉濞は呂氏一族による劉氏一族や元勲の粛清に巻き込まれることなく自国の統治を優先し、領民を手なつかせて領国支配を強化するようになった[2]。劉濞は天下の逃亡者を招き寄せ、現在の浙江省長興県の西南の銅山からとれる銅で貨幣を鋳造し、海水を煮てを精製して領国を豊かにしたので、呉の人民は人頭税を取られる必要すらないほど豊かだったという[2]

紀元前180年に呂氏一族が周勃陳平らによって粛清され、文帝(劉恒)が新たに即位する。この時代に劉濞の太子である劉賢が中央に参内した際、文帝の皇太子である劉啓(後の景帝)と博打をめぐって口論となり、劉啓は博打の劉賢に投げつけて彼を殺害してしまった[2]。このため、文帝は劉賢の遺体を呉に送り返したが、この処置に劉濞は激怒して「天下は同宗なり(すなわち天下の諸侯は全員同じ劉氏の一族である)。長安で死去したなら、長安で葬ればよいのにどうして送り返して葬式をさせる必要があろうか」と述べて我が子の遺体を長安の文帝の下に送り返してしまった[2]。かつて高祖の時代に功績を立て、その高祖から謀反を起こすな、一族の和を大切にせよと言われていた劉濞はあくまで高祖の言葉を守ろうとしたのであり、文帝も非は我が子にあったことを認めて以後は劉濞の無礼な対応があっても一切を咎めない寛大な処置に徹した[2]

しかし劉濞がそれをいいことに、次第に中央の皇室に対する礼を守らなくなったり、病気と称して中央に参内しなくなったりしたのも事実だった[2]。さすがの文帝も疑いを深め、呉の使者が中央に派遣されると訊問したりしたという[2]。ただ使者もなかなかの切れ者だったようで、「淵中の魚を察見するは不祥なり」(つまり深い淵の中の魚をあまりにも観察しすぎるのは不吉であり、臣下の秘密をことごとく知ろうとするのはかえって罪を恐れて反乱を起こさせることになり、不吉であります)と答えたので、文帝は劉濞を追及することをやめてしまった[2]

反乱[編集]

紀元前157年に文帝が崩御し、新帝に景帝が即位すると状況が一変する。景帝は言うまでも無く我が子を殺害した仇敵である。しかもその景帝は側近に鼂錯を任用した[2]。この鼂錯は文帝の時代から諸侯の領地を取り上げて中央集権化を進める政策を提言していた人物であった。文帝は袁盎の反対と一族の和を乱したくない穏健な性格だったことから鼂錯の意見を受け入れなかったが、景帝は鼂錯の意見を積極的に受け入れて諸侯の削減に乗り出した[2]

鼂錯は些細な口実や落ち度を見つけては楚・趙・膠西の諸王を咎めてその所領を次々に削減した[2]。鼂錯が最も恐れていたのは諸侯の中で抜きんでた勢力を誇る呉の劉濞であり、鼂錯は劉濞を故意に陥れようと画策するほどだった[2]。だが劉濞のほうも既に危機感は強めており、膠西王の劉卬に使者を送って「糠を舐めて米に及ぶ」(すなわち犬が初めに糠を舐め、後に米粒を食べるように領地が削られてやがて最後に国郡も奪われてしまう、の意味)と述べさせた[2]。これで同じように危機感を強めた劉卬も劉濞に協力して中央集権化に不満を持つ王、あるいは所領を無理やり削減された王に対して反乱をはたらきかけ、紀元前154年の1月には遂に楚王の劉戊、趙王の劉遂、膠東王の劉雄渠、菑川王の劉賢、済南王の劉辟光らと連合して中央に対して反乱を起こした(呉楚七国の乱)。反乱の大義名分は景帝の側近である鼂錯は君側の奸臣であるのでこれを除くというものであった[2]

反乱を起こした諸侯の連合軍は中央政府に匹敵あるいはそれ以上の勢力であり、また中央政府でも鼂錯の急進的なやり方に不満を抱く者は少なくなく中央から内通者が出てもおかしくはなかった。景帝は周亜夫竇嬰酈寄らを派遣して鎮圧を担当させる一方で、かつて父の文帝の信任が厚く呉の宰相を務めたことのある袁盎を召喚して意見を具申した[3]。袁盎は鼂錯を誅殺して削減した所領を反乱軍に返還するように具申し、景帝はやむなく鼂錯を処刑して劉濞に反乱をやめさせるために袁盎を派遣して説得にあたらせたが、不首尾に終わった[3]

だが、劉濞は既に62歳と当時としては高齢であり、若い頃の才気はほとんど見られなくなっていた[3]。戦いの方針がはっきりせず、優柔不断な選択を繰り返して果断な決定を行なわず、家臣の様々な献策を聞いてもそれを受け入れずにいる始末で、中央軍と戦いながら貴重な時間を無為に過ごす有様であった[3]。この間に景帝の中央軍は十分に戦備を整えることができて、周亜夫が昌邑に砦を建築してここを堅守すると、呉軍はこれを攻めあぐね、その間に中央の別動隊によって呉の糧道が断ち切られる始末になってしまった[3]。こうして形勢が逆転すると、それまで優勢だった反乱軍は中央軍によって次々と打ち破られるようになり、劉濞は敗軍をまとめて下邑(現在の安徽省碭山県の東)で中央軍との決戦に臨むが、大敗を喫して東越に逃亡した[3]

しかし東越は劉濞もろとも中央軍に滅ぼされることを恐れ、劉濞を殺害してその首級を長安に届けて服従を誓った[3]。これにより呉楚七国の乱は発生からわずか3か月で鎮圧されることになった[3]

劉濞の死後、前漢は郡県制を採用して諸侯は削減の対象となり、中央集権化が進められていくようになった[3]

評価[編集]

反乱を起こしたことに関しては諸原因が重なった不幸な事情があるとも言えるが、中央政府が中央集権化と郡県制を急ぎすぎていたことも挙げられるし、結局は諸侯の領地を守るための反乱であった[3]

司馬遷は劉濞の業績を『史記』において「列伝」(呉王濞列伝)で扱っている。これに対して後年、司馬貞が劉濞はあくまで王国の支配者であったから「世家」で扱われるべきだとして司馬遷の『史記』の体制を批判している(『史記』「索隠」)。これに対してさらに後代の陳仁錫は「呉などの国々は反逆によって滅ぼされた。領土を鎮め治めるという王国の条件はどこかに行ってしまったのだ。だから彼らが『世家』に入れられなかったのは当然である(『史記考証』所印)と反論している。

脚注[編集]

  1. a b c d e f 青木五郎、中村嘉広 編『史記の事典』大修館書店、2002年、p.325
  2. a b c d e f g h i j k l m n 青木五郎、中村嘉広 編『史記の事典』大修館書店、2002年、p.326
  3. a b c d e f g h i j 青木五郎、中村嘉広 編『史記の事典』大修館書店、2002年、p.327

参考文献[編集]