伊達正統世次考

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伊達正統世次考(だてしょうとうせいじこう)とは、戦国大名伊達氏に関する史料である。

概要[編集]

著者・成立年代[編集]

伊達政宗の曽孫・伊達綱村が、田辺希賢に編纂の責任者を命じて、遊佐木斎に編纂を行なわせたいわゆる後代史料である。成立年については、各巻の冒頭に「従四位上行左近衛権中将兼陸奥守藤原朝臣綱村謹簒」とあるため、綱村が従四位上近衛中将に叙任した元禄9年(1696年)12月以降ということはわかる。下限は元禄15年(1702年)であり、この頃に編纂が終了して翌年に清書が行なわれたと見られている。

編纂当時は『正統考』(せいとうこう)と称され、あるいは『代々考』(だいだいこう)とも言われていた。

内容[編集]

全10巻。伊達家の初代・伊達朝宗から、第15代の伊達晴宗までの伊達家の歴史について編纂している。

後代史料であるが、そのために信頼性を強化するため「今按ずるに」「又按ずるに」という注解を加えまくっている。さらに「一書に曰く」「旧記に曰く」と何らかの関係文献に当たっていたかのような文言も加えまくっている。

伊達家15代の歴史書だが、特に政宗の曾祖父である第14代・伊達稙宗祖父で第15代・伊達晴宗に関する記述が多い。この2代だけで全10巻のうち、3巻も使われている。恐らく、編纂から数えて時代が近いためで、それなりに史料が残っていたこと、この親子で天文の乱と称される奥州でも最大規模の内乱が発生したため、それについて詳しくまとめ上げようとしたためと思われる。天文の乱については、政宗の曾祖父と祖父の争いにもかかわらず、原因と経過を示して著者の解説まで加え、さらに知行宛行状なども加えるなど様々な記録を下に編纂されている。

最後は、晴宗が没した天正5年(1577年)12月の記事と、晴宗に「男子6人、女子5人」の子供がいたことについて付記して終了している。編纂記事であるが、伊達家にとって不名誉な天文の乱についてかなり詳細に書いており、史料的価値は高いと見られている。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]