中尊寺
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概要[編集]
それから約200年後、前九年の乱に勝ち奥州藤原氏を引き取った清原武則が平泉を占領して、金の採取が活発になった。
武則が死ぬと、中尊寺開山の祖である藤原清衡の兄・藤原真衡と藤原家衡と清衡とで家督争いが起こった。後三年の乱と呼ばれるその戦いは泥沼戦となり、真衡の死後に源氏の源義家が不利になった清衡に見方をして、家衡は戦死した。清衡は家督を継いで、その時に集めた金銭で中尊寺を作った。
作られた場所は関山という山で、一つの塔を建てたことが始まり。その後拡大していき、1124年にあの中尊寺金色堂が作られた。
戦国時代の稗貫氏の動乱にも乗じずに安泰を保ち続け今日まで続くが、江戸時代には金色堂の色は褪せてゆき、松尾芭蕉もこのような句を残した。
五月雨の降り残してや光堂
第二次世界大戦中にも崩壊しなかった中尊寺だが、1963年に大規模工事が始まり金色堂や仏像など色々なものが修理された。金色堂を覆う覆堂ほ立て替えられていて、昔の覆堂は中尊寺旧覆堂として別の場所に移動されている。
現代では2011年の東日本大震災を受け、毎年被害者供養が行われている。