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三浦俊一

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
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三浦俊一(みうら しゅんいち、1947年 - )は、労働運動家。釜ヶ崎日雇労働組合(釜日労)副委員長[1]

略歴[編集]

熊本市生まれ。1966年関東学院大学経済学部入学[1]。同年秋社会主義学生同盟(社学同)に加盟[2]。ベトナム反戦運動をきっかけに1967年共産主義者同盟(第二次ブント)に加盟。同年大学自治会委員長。1968年関東学院大学全共闘議長。1969年より共産主義者同盟赤軍派に参加[1]。この間、1967年10月8日と11月12日の羽田闘争[3]、1968年1月の原子力空母エンタープラス寄港阻止闘争(逮捕)[2]、1969年1月の東大闘争安田講堂攻防戦(逮捕)などに参加[3]。1984年に活動を離れ、渡欧して輸入業を営む[1]アジア新時代研究会の研究誌『アジア新時代と日本』第98号(2011年8月5日)では「欧州と往復しながら、ネクタイとスカーフの貿易です」と語っている[4]。60歳を前に事業を任意整理[4]。2008年大阪釜ヶ崎に移住、活動を再開。釜ヶ崎日雇労働組合(釜日労)副委員長[1]

人物[編集]

  • 1968年1月の原子力空母エンタープラス寄港阻止闘争で逮捕され、出獄後にマルクス主義戦線派(マル戦派)としてブントを追放された。その後日向翔(荒岱介)にオルグされ、半年間悩んだ末にブントに復帰した[2]
  • ブント復帰から数ヶ月後の7・6(1969年7月6日の赤軍派によるさらぎ徳二ブント議長への監禁・暴行)の頃は、ブント神奈川県委員会の左派フラグにいた。7・6の後に関東学院大学のバリケードで赤軍派の部隊と対峙したが、その後赤軍派に入った。2018年に開催された塩見孝也赤軍派議長追悼イベントでは赤軍派に「行きたくて行ったんじゃ無かったのです」と語っている。なおブントの神奈川県地区唯一の拠点である関学を維持する方針があったため、1969年11月の大菩薩峠での武装訓練には参加しなかった[2]
  • 釜ヶ崎に来てからは生活保護を利用している[4]
  • 2012年に開催された第4回西成特区有識者座談会にゲストスピーカーとして出席した[5]
  • 2014年に設立された「10・8 山﨑博昭プロジェクト」の賛同人[3]。2018年に京大で開催された「追悼!塩見孝也とその時代」の世話人[6]
  • 大阪から沖縄辺野古に通い、基地建設反対運動を行っている[7][8]

著書[編集]

  • 『追想にあらず――1969年からのメッセージ』 編・著、講談社エディトリアル、2019年12月

脚注[編集]

関連項目[編集]