ゾンビ
ゾンビ(英:Zombie)の元ネタは、ブードゥー教。
概要[編集]
ブードゥー教におけるゾンビとは、極刑に相当する処置で、テトロドトキシンなどの神経毒を用いて心臓を一旦停止させてから一定時間後に解毒剤を与えて心臓の鼓動を再開させる事により、脳の前頭葉にダメージを負わされたまま生かされている人間とされている。「薬剤を用いたロボトミー手術と考えればいいのかもしれない」という印象は確かにあるが、いわゆる「ゾンビ・ブーム」に通底したゾンビ像とは少々異質であるように思う。
自我を失って奴隷のような扱いを受け続ける事になったようで、死刑よりも恐ろしい極刑とされ、ゾンビにされないように死んだ後は首を切り落とす等の処置が対抗手段として実施されたりするんだとか。土葬の風習ならそうなるのかもしれないが、火葬の風習なら気にしないで良さそう。
つまりブードゥー教におけるゾンビは不死身ではない。
哲学的ゾンビと「ゾンビもの」[編集]
いわゆる「ゾンビもの」に登場するゾンビは、「活動する屍体」である。つまり「すでに死んでいる」から、主観的意識はない。そうした「クオリアがないのに普通に活動しているように見える存在が存在したら」ということを前提とした思考実験が「哲学的ゾンビ」の原形である。その「哲学的ゾンビの活動がどこまで可能か?」といったことから「哲学的な課題は手に負えないので、『実際に出たらどうするか』をエンタテイメントとして愉しんでみよう」というのがゾンビ物である。
そんなわけで、「一人称視点でのリアルタイム・シューティングゲームでゾンビの活動を止める作業を行うことは、倫理的にも問題がないはずだ」ということになる。それゆえゾンビは常に「記号的な、いかにもゾンビ」な気持悪くとして描くのが大人の事情によるお約束である。
そんなわけで「着せかえゾンビ」ゲームは認められない。「いかにも東洋の黄色い猿みたいな容姿をしているけれど、中身は生きた人間としての日本人じゃなくてゾンビであって、ただの社会的に迷惑な動く屍体なんだよ」という話は通らない(たとえBGMが『愛の戦士レインボーマン』の『死ね死ね団のテーマ』でプレイヤーがテンガロンハットを被ったフィリピン出身者であってもだ)。けれど「開けるな」と言われても我慢ができなくなるというか、「『開けるな』と命令されたから、開けて中身を確かめたくなるのが人間というものだろう!」と言われると通っちゃうのがエンタテイメントの世界だったりもする。岩明均『寄生獣』はそういう話だろう。日本では『機動警察パトレイバー』の劇場版では「無人のレイバーが暴走を始める」というマルウェア(作成者はすでに自殺した帆場暎一)が登場するが、それもゾンビもののバリエーションのひとつであるかしれない。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- ウェイド・デイヴィス『蛇と虹 ― ゾンビの謎に挑む』(1988)