ムスタアスィム

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ムスタアスィム1213年 - 1258年2月21日)は、アッバース朝の第37代、最後のカリフ(在位1242年 - 1258年)[1]

生涯[編集]

第36代カリフ・ムスタンスィルの子で[1]、1242年に父が死去したため跡を継ぐ。信仰心に篤い温厚な人柄だったと伝わるが、国政に関しては平民から取り立てた側近らに一任して自らは遊興にふける始末だったという[1]モンゴル帝国フレグによる侵攻を受けても気にかけず、報告も無視する始末で、ハマダンまでフレグの軍勢が侵攻して降伏勧告した際には従わなかった[1]。1258年にフレグ軍によりバグダードが包囲されると2月10日に降伏するが、フレグにより息子らとともに処刑された[1]。処刑方法はモンゴルが貴人の死として身体を縛り上げて布で包み、そこを馬で轢き殺す方法をとったとされるのが通説である。享年46。これによりアッバース朝は滅亡した。

ムスタアスィムの叔父・ムスタンスィル2世エジプトマムルーク朝に落ち延びて名目上のカリフとして系統のみ伝えた[1]カイロ・アッバース朝)。

脚注[編集]

  1. a b c d e f 小和田『世界帝王事典』P93

参考文献[編集]