日本マルクス主義学生同盟

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

日本マルクス主義学生同盟(にほんマルクスしゅぎがくせいどうめい)は、革命的共産主義者同盟全国委員会(革共同)の学生組織。略称はマル学同

1960年4月に結成され[1]、1963年に革共同の革マル派中核派への分裂に伴い、マル学同もマル学同革マル派マル学同中核派に分裂した。

概要[編集]

1960年1月16日にブント系の全学連主流派が岸首相訪米阻止のため羽田空港を占拠した事件に触発されて、同年に革共同の下部学生組織として結成された[2]。60年安保闘争敗北後、ブントは「戦旗派」「プロレタリア通信派」「革命の通達派」「共産主義の旗派」の4派に分裂して崩壊を遂げ、1961年2月に「戦旗派」の大部分、3月に「プロレタリア通信派」の一部が革共同に合流した。この際に唐牛健太郎篠原浩一郎清水丈夫北小路敏ら全学連書記局の中心メンバーが革共同に移行したため、革共同=マル学同がブントに替わって全学連の主導権を掌握することになった。

1961年4月の全学連第27回中央委員会の役員改選でマル学同が執行部を掌握した[3]。全学連第17回大会を2日後に控えた同年7月6日、社学同革共同関西派社青同の3派が飯田橋のつるや旅館に集まり反マル学同の立場で一致し、早朝に会場入りすることを申し合わせた(つるや連合)。大会当日は会場を占拠した「つるや連合」と事前に角材を用意していたマル学同派との間で激しい乱闘が起きたが、結局北小路敏が委員長に選出され、マル学同が執行部を独占した。この大会での乱闘は学生運動における内ゲバの始まりであるといわれる[4]。同年12月の全学連第18回臨時大会では根本仁が委員長に選出された。

革共同全国委員会は、1962年9月の革共同全国委員会第三回総会の「三全総路線」をめぐって政治局多数派の本多派と、政治局少数派の黒田派が対立する。全学連内部でも大学管理法案反対闘争での統一行動をめぐって対立が起きた。1963年4月1日に黒田派は革共同全国委員会から分裂して「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」(革マル派)を結成した。マル学同では黒田派が多数派を占め、小野田襄二書記長を中心とする本多派は分裂して「マルクス主義学生同盟・中核派」を結成し、機関誌『中核』を創刊した。ここから上部団体の革共同全国委員会も「中核派」と呼ばれるようになった。

脚注[編集]

  1. 警備研究会『わかりやすい極左・右翼・日本共産党用語集〔四訂〕』立花書房、2012年、173頁
  2. 社会問題研究会編『全学連各派』双葉社、1969年、59頁
  3. 田代則春『日本共産党の変遷と過激派集団の理論と実践』立花書房、1985年、275頁
  4. 伴野準一『全学連と全共闘』平凡社(平凡社新書)、2013年、153頁