ニーノ・サンツォーニョ
ニーノ・サンツォーニョ(Nino Sanzogno, 1911年4月13日 - 1983年5月4日)[1]は、イタリアの指揮者、作曲家。[2][3]本名はジョヴァンニ・ジュゼッペ・ルイジ・サンツォーニョ(Giovanni Giuseppe Luigi Sanzogno)。[4]
ヴェネツィア出身。地元の音楽院でメツィオ・アゴスティーニとジャン・フランチェスコ・マリピエロに作曲[5]、ジュゼッペ・デ・グァルネリにヴァイオリンをそれぞれ学んだ[6]。また、ブリュッセルでヘルマン・シェルヘンの指揮講習会を受けている。1937年にはアンリ・ド・ブーフ国際作曲コンクールに参加し、八重奏曲を出品して優勝。同年にイタリア器楽グループを指揮して指揮者としても活動するようになり、またゴッフレド・ペトラッシの推挙により、1939年までヴェネツィアのフェニーチェ劇場の指揮者を務めた。1939年にはミラノ・スカラ座に初登場。1955年にはピッコラ・スカラを発足させ、ドメニコ・チマローザの《秘密の結婚》を始めとする18世紀以前のイタリア・オペラの再評価に注力した。一方で、1954年にセルゲイ・プロコフィエフの《炎の天使》をフェニーチェ劇場で取り上げたり[7]、1957年にはスカラ座でフランシス・プーランクの《カルメル派修道女の対話》の初演を指揮したリ、1948年にイタリア初上演で指揮をしたパウル・ヒンデミットの《カルディヤック》を1964年にスカラ座で取り上げたり[8]と、同時代のオペラ作品の紹介にも積極的に取り組み、ダルムシュタットにも現代歌劇の専門家として講習会に招かれた。1959年から1963年までマッシモ・プラデッラと共同でミラノ・イタリア放送交響楽団の首席指揮者を務め[9]、同時代の作曲家の作品の擁護者として活躍する一方で、イタリアでは馴染みの薄かったアントン・ブルックナーの作品の紹介にも努めた。
ミラノにて死去。
脚注[編集]
- ↑ アーカイブ 2021年3月16日 - ウェイバックマシン
- ↑ “Sanzogno, Nino | Grove Music”. 2014年7月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年7月5日確認。
- ↑ アーカイブ 2021年5月4日 - ウェイバックマシン
- ↑ “SANZOGNO, Giovanni Giuseppe Luigi, detto Nino in "Dizionario Biografico"”. 2021年5月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月5日確認。
- ↑ Pfitzinger, Scott 『Composer Genealogies』 The Rowman & Littlefield Publishing Group, Inc.、2017年、474頁。ISBN 9781442272248。
- ↑ Pessot, Elena 『Cronaca di una favola chiamata musica』 Olschki、2005年、14頁。ISBN 9788822254351。
- ↑ アーカイブ 2019年5月3日 - ウェイバックマシン
- ↑ “Cardillac”. 2021年5月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月5日確認。
- ↑ アーカイブ 2021年3月16日 - ウェイバックマシン