ヘルマン・シェルヘン
ヘルマン・シェルヘン(Hermann Scherchen, 1891年6月21日[1] - 1966年6月12日[2])は、ドイツの指揮者。[3]
ベルリンでヘルマン・カール・ユリウス・シェルヘン(Hermann Carl Julius Scherchen)[4]として生まれる。6歳の頃よりヴァイオリンを独学し、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの弦楽四重奏曲の楽譜を読みこなして読譜力も身に着けた[5]。15歳の頃から家計の足しにナイト・クラブで演奏するようになり、1907年からブリュートナー管弦楽団にヴィオラ奏者として入団。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やクロルオーパーにも団員として参加し、楽譜を研究することで実地的に音楽的研鑽を積んだ。1911年にはアルノルト・シェーンベルクの知己を得、1912年にシェーンベルクの《月に憑かれたピエロ》[6]の初演ツアーに参加して指揮者として活動するようになった。1914年から1916年までロシアのリガ交響楽団の指揮者を務めたが[7]、第一次世界大戦の影響で敵国人として一時的に抑留された[8]。帰国後の1919年には「新音楽協会」を旗揚げし、1920年には音楽雑誌『メロス』を創刊したり自ら弦楽四重奏団を結成したりして同時代の音楽を擁護する論陣を張った。1922年から1950年までスイスのヴィンタートゥール市管弦楽団の首席指揮者を務める一方で、1923年のISCM国際現代音楽祭が開催されてから同音楽祭の首席指揮者も兼ねた。1928年からケーニヒスベルク市の音楽総監督を務めたが、1933年にナチス政権の樹立に抗議して辞任し、以後スイスに移住。1935年にはブリュッセルにアルスヴィヴァ音楽出版社を設立し、同時代の作曲家の作品の出版に尽力した。1944年から1950年までチューリヒ放送管弦楽団の指揮者を兼任。以後はフリーランスの指揮者としてヨーロッパ各地のオーケストラに客演。1954年にはグラヴェザーノに電子音楽スタジオを建設。1964年にはフィラデルフィア管弦楽団に客演してアメリカに初登場を果たした[9]。
1966年6月7日にフィレンツェでジャン・フランチェスコ・マリピエロのオペラ《オルフェオ》の上演を指揮していたが、休憩時間中に心臓発作で倒れ、滞在していたフィレンツェのサヴォイ・ホテルにて客死[10]。
脚注[編集]
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