ダブリン王国
ダブリン王国(ダブリンおうこく、英:Kingdom of Dublin)とは、かつてアイルランドに存在した王国。839年のヴァイキングの建国から1137年にイングランドに征服されるまで続いた。ヴァイキングがブリテン諸島に建国した王国の中でも最も初期の王国であり、かつマン王国を除けばそれらの王国の中で最も長く存続した。
国名[編集]
英語ではKingdom of Dublin、古ノルド語ではᚴᚮᚿᚢᚿᚵᛋᚱᛁᚴᛁᚧ ᛑᛦᚠᛚᛁᚿ(ラテン文字転写:Konungsríkið Dyflin )、アイルランド語ではRíocht Duibhlinnという。国名はアイルランド語で黒い水溜りを意味するDubh Linnが由来であり、これはヴァイキング達が築いたダブリン城の裏庭にあった水溜りが由来だと言われてる[1]
歴史[編集]
族長アムライブ・コヌングに率いられたヴァイキングがアイルランド島の一部を占領して建国する。領域は現在のダブリン県とほぼ一致する。ヴァイキングたちがどの地点にロングフォート[2]を築いたかは明らかでなく、現在でも論争が続いている。またアルスターの年代記によるとヴァイキングたちは840年から841年の冬を安全に過ごす事が出来たらしい。
902年にヴァイキングがアイルランド人に対し敗北を続け、現地での支配力が弱まったことからヴァイキングは917年にノーサンブリア王シグトリグル(Sigtryggr)に率いられて再征服するまでダブリンを放棄した。
建国当初の王国はヴァイキング的要素が強かったものの時代が下るにつれてゲール化していき、ゲール文化とヴァイキング文化の影響を受けた独特の文化が花開いた。特に988年、タラの戦いに勝利したマール・シェクネル・マクドーナル(Máel Sechnaill mac Domnaill)によってダブリンが占領されて以降ゲール化が急速に進行していった。
しかしその頃から王国は衰退を始め、11世紀中頃からは隣国レンスター王国の影響が強まっていった。最終的にイングランド王ヘンリー2世の支配下の兵士達によってダブリンが占領され、最後の国王アスカル・マクラグネル(Ascall mac Ragnaill)が殺害されたことによって王国は滅亡した。これ以降ダブリンはイングランドの支配下に入り、20世紀にアイルランド共和国として独立するまでイギリスの植民地と化した。
宗教[編集]
建国当初、支配層は北欧神話を信仰しており、庶民の多くはケルト系キリスト教を信仰していた。後にこれら伝統的な宗教に代わりカトリックが広まっていった。
言語[編集]
建国当初の支配層は古ノルド語を、被支配層であるケルト系アイルランド人はアイルランド語を使用していたが、やがて支配層にもアイルランド語が広まっていった。
遺跡[編集]
常に支配が不安定であり、また高度な建築技術も持たず、さらに多くの建築物が王国滅亡時に破壊されたため現存する遺跡はダブリン城の地下にあるヴァイキング時代の城塞跡など僅かである。