アムライブ・コヌング

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アムライブ・コヌング英語Amlaib Conung古ノルド語ᛟᚱᚨᚠᚱ、ラテン文字転写:Óláfr生没年不詳) とは、9世紀中頃のヴァイキングの指導者であり、ダブリン王国の初代国王(在位:853年〜871年)。ヴァイキング達を率いてアイルランドに攻め入った後ダブリン地方を征服し、ダブリン王国を建国した。

生涯[編集]

彼がいつ、どこで生まれたかは残念ながら詳しくわかってはいない。『アイルランド年代記』は彼がロッホランの国王の息子で、イマールという弟がいると述べている。[1]ロッホランは一般的にノルウェーに対するケルト人の呼称として知られているが、彼が生きていた時代にノルウェーを意味していたとは考えにくく、[2]何人かの歴史家はヘブリディーズ諸島の事ではないかと考えてる。

彼に関する記録で最も古い記述は『アルスター年代記』にあるもので、そこでは彼が853年にアイルランドに侵入した事が示されている。いくつかの歴史書は強力な抵抗に遭った彼がアイルランドから一旦退避した事を仄めかしており、もしそれが事実ならば彼は遅くとも857年までにアイルランドに帰還したはずである。

彼はアイルランドへの帰還後もアイルランド高王マール・シェクネルと恐らくマンスターの支配権を巡り争った。彼はシェクネルの対立王アード・フィンドリアスと結びこれに対抗した。争いは最終的にシェクネルが死亡する862年まで続き、それ以降彼はダブリンにおける支配権を完全に確立した。

晩年の彼はスコットランドに対する大規模な遠征を計画していたが、フィンドリアスが彼に敵対した事によって結局果たせずに終わる。871年の退位を境に彼に関する記録はほとんど絶えている[3]

よって、いつ亡くなったのかも不明である。

称号[編集]

後世の歴史家達は基本的に彼をダブリン王King of Dublin)と呼ぶが、これは後世につけられた呼称であり、彼とほぼ同時代に書かれた『アルスター年代記』は彼の事を侵入者達の王King of Foreigners)と記している。

脚注[編集]

  1. 信憑性の程は高くない
  2. 多くの歴史家達はマグヌス素足王による遠征後にロッホランがノルウェーを意味するようになったと考えてる。
  3. 数少ない例外として『ピクト人の記録』が挙げられるが、多くの歴史家はこの史料の正確さを疑っている。

関連項目[編集]